SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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非常識と呼ばれた私

私は子供の頃、非常識と言われる事があった。しかし、大体において、私は自分が何の為に何をするのか説明できた為、そういう彼らの主張をはね除ける事は造作もなかった。
 
なぜ、そうなってしまったのかというと、私が放ったらかされていたからなのだ。要するに常識をインプットされていない。家の中で誰が私を育てるのか決まっておらず、各々が全く違うことを勝手に言うというダブルスタンダードならぬ、トリプルスタンダードクラスの状況があった。それ故に私は何が正しいのか自分で検証せねばならなかった。
 
そんな状況なので、小学生の私は皆が紐が結べるのに結べなかった。私が結べる様になったのは、友達がやっているのを見よう見まねで真似をしたからである。つまり、私は自分がいいと思った事は周りから吸収し、どうでもいいと思った事はインプットしないという主体的な習慣を持つに至った。逆に言えば、受動的になる機会そのものがなかったと言える。
 
だから、私の習慣として何事も「何の為にするのか?」という基準で動く為、理由がちゃんとしていない事を聞くという様な受動的な発想は、そもそもないのだ。だから、周囲が「こうでなければいけない」「ああでなければいけない」と命令しても「では、それは何の為にするのか?」というのが私の返事で、それに全く答えられない事は「そもそもする必要がない事」として片付けられるのだ。つまり、自分の行動基準から言って、「何の為にするのか?」という亊が明確でない事をやるという亊が想像(イメージ)できないのである。
 
だから、周囲がいわゆる「常識」を提示しても「それは何の為に必要なのか?」という質問に答えられない限り、私がその常識に従う事はなかった為、私は非常識というレッテルを貼られる事になった。しかし、私から見れば、何の為にするのか分からない事をする事自体が、「非常識」なのである。だから、私から見ると、周りが非常識で、私が常識家なのである。
 
私は放ったらかしにされた事で、固定観念を植え付けられる事なく、発想的には主体的になる事が出来た。だから、このブログでは、批判だけでなく提案が多いのは、「何の為に何をするのか」という亊が明確だからである。私にとって、提案するという事は、理由に基づいた当たり前の事なのである。ただ他者を批判するというは相手の発するものに対して、受動的に反射しているに過ぎない。しかし、提案するというのは自ら光る様なもので、それはつまり、何の為に何をするのかという「理由」がきちんと頭の中にあるからこそ出来るのである。そういうものが頭の中にない人が受動的な発想になるのだと私は思う。固定観念(エセ常識)ばかりがつまっていてね。
 
私に言わせると、本物の常識ならば、誰もが納得する「理由」を持っている筈である。それがないものは、そもそも「常識」ではないのである。
 
それに、理由も分からず従う様な発想だと、何がいいのか悪いのか分からず従っているという事だから、悪い事に加担していても、それに気づけない。それで何か問題が起きると、「皆がしていたから」と言って、自分の無責任な姿勢を正す事なく、付和雷同する事を正当化する。それは良くない事だ。日本人の付和雷同のルーツは行動に理由を求めず、安易に従う姿勢から生まれている。
 
自分の無責任な行動を他人のせいにしては駄目だ。そんな人が多いと無責任な社会が生まれる。自己改革の出来ない社会になる。何がいいのか悪いのか見極めて付和雷同する事なく、自分の頭で考えて欲しい。それが出来れば、日本は変われるだろうし、もっと良い社会に出来る筈だ。