SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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できない事は考えない「時間を有益に使うために」

自分は、出来ないことは考えないようにしている。では、どうするかというと、まず、できる事に意識を集中することが有益だと思っている。ネガティブ思考の前の記事にも書いたが最終的な目標については、自分は最後に評価するべきもので、その途中の段階では、それを意識することは、時間の無駄にしかならないことに気づいた。というのは、その目標が達成できないと悩んでいる時間が非常に多く、それが、実働時間を上回ってさえいることが分かった。そんなことでは本末転倒なので、実働時間を長くするために、そう言う最終目標を殊更に意識しないことに決めた。

つまり、私が過去にしていたことは、出来ないことを考えることで、実働時間を半分以下に減らしていたわけで、ハッキリ言ってバカなことをしていたのである。そんな無駄なことを考えるくらいならば、まず、目標を細かく設定して、暫定的に小さな目標を達成していくことの方がはるかに有益だったりする。また、そう言う行動を通して得られる情報が、効率化に結びつくものもあったりするので、とにかく、行動は情報収集と結果の両面から、有益なことが多い。つまり、考えても意味のあることは、考えるべきだが、考えるべきではないことは考えない。それが今の自分のスタンス。

特に問題だと思っているのは最終絶対評価、最終絶対評価が重要な場合というのは、軍隊などでは重要、なぜなら、戦争で任務に失敗したら死んじゃう場合があるから。でも、一般的な世界では、人が死ぬ事はあまりない。つまり、やり直しが出来たり、猶予がある問題について考えるとき、この最終絶対評価は、むしろ目標達成においては有害となり得る。何が問題なのかというと、最終的な目標があまりにも過大である場合、それが達成されるまで長期間、自己を否定し続けるわけで、その間のモチベーションが続かない。段階のない頂上決戦みたいな目標設定は、あまりにも無謀であり、それが出来ないから否定するというのは、あまりにも、人の自尊心を傷つける行為であって、その結果、目標を達成する前に精神的に参ってしまうのが現実。

だから、最終絶対評価は有害、精神的に追い詰められるから。私がこのことが有害だと思ったのは年の離れた義兄が結婚して義姉ができたことに端を発する。彼女は自分の完全な形というのがあって、それに該当しないもの、特に私の行動を微にいり、細にいり、否定した。その度に子供の頃の私は傷ついた。彼女が出てくると私は元気を失った。明るくなろうと、自分ができた小さな結果について、自分で自分を褒めようとしても、それを片っ端から否定し、台無しにするのが義姉のやることだった。

彼女の中では、絶対的に正しい、これというものがあり、それに該当しないものは尽く否定する人だったので、私は義姉が嫌いだったし、彼女が家にいることが私の生活を悪化させていると、よく思ったものだった。精神医学の本を読むと、存在するだけで、他人に害をなすという意味で「ピープル・ポイズン」というのだそうだ。義姉は、正にそれだった。

義姉が問題だったのは、要するに他人の自尊心まで壊すような個人攻撃をしてしまったこと「どうせあんたなんかには〜出来ないわよ」とか、個人の尊厳を否定するような言葉を使っていたことなんだ。僕が他人を批判するときには、何がどのように問題なのか具体的に指摘する。そうすることで、問題を限定し、それを改善すればうまくいく道がイメージできるが、義姉の批判は曖昧であり、漠然としていて、何を改善すればいいかわからないばかりか、私の存在(尊厳)までも否定していた。このような事をする義姉は、私は嫌いだったし、義姉の実の姉曰く「あの娘、バカだから」と、そういう愚かなことをする妹に対して、その姉が苦言を言うほどだった。今は、当時の彼女よりも歳をとった私から見て、本当にバカな人だったと思う。

そして、そんな人間に振り回された私もバカだったと思う。彼女の問題は、その時点の私には、出来ないことを要求してしまったことなんだ。できる事を具体的に指摘し、改善を求めるのではなく、漠然とした過大な目標を設定し、それが出来ないからお前はダメだという主張をすることが問題。そういう出来ないことを要求し、人を傷つける人だったので、私はいつしか、自分が傷つけられないために、このあまりにも無意味で時間を浪費するだけの、自分に出来ない事を考えなければいけないという習慣がついてしまった。思えば、そういう彼女の影響で私はどれだけの時間を無駄に使ったか知れない。考える必要のない事を無駄に考えさせられたと今も私は彼女を恨んでいる。

この文章を読んだ人は、こういう「できない事、あるいは、漠然とした具体性のない事を考えること」に時間を浪費せず、「その時点で可能なこと、具体的に考えること、小さな結果でも尊重する姿勢を持つこと」に意識を集中したほうがいいと思う。それが時間を有益に使うことに繋がり、そして、最終的な目標に逆説的だが近づくことになるだろう。最終評価は最後にやればいい、それが出来ない段階では、それが出来ないからといって、自分を否定するべきものではないのだ。最終結果が出るまで評価しないみたいな、そういう悪い評価モデルを持っていると、絶望するしかなくなるので、絶望しないために、考え方を切り替える必要があるのだ。あと、そんなこと考えるのは時間の無駄だし、精神的に破綻するのが目に見えているので全く非合理だからしない。

絶対的評価ではなく、段階的、相対的評価こそが人を育てる。よって、私が人にアドバイスするとき、そこには、段階的、相対的評価になる。状況が前進したと見れば、ソコをすかさず褒め、称賛する。そうやってモチベーションを高めていき、努力を継続させる。絶対的にコレがこうだからといって否定はしないし、個人攻撃もしない。そんなことをすればモチベーションが続かず、努力もなにもしないことになってしまうのは目に見えているから。問題点はストレートに指摘し、具体的に改善を求める。そうしないと、何を改善していいのかわからなくて、絶望したりする。

思えば日本社会って考えることが曖昧だと思うんだよね。曖昧な報道の影響が強いんだと思うけど、とにかく、曖昧であることが悲観的な発想に結びついてて、有効な結果を導くのを妨げている。具体的に問題点を指摘しようとすると、角が立つといって非難するのも、心情的には理解できるものの、進歩には有害だと思う。