SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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権威主義がなぜダメなのか

自分は韓流ドラマをよく見る。特に宮廷ものを、なぜかというと、韓流ドラマでは、必ず奴婢が出てきて迫害され、それが成り上がるというのが基本パターンで、そういうものを見て喜ぶのは、私自身が奴婢のような立場であったからだ。

私は朝鮮王国の奴婢ほど酷い扱いは受けなかったものの、下のものの立場は、よく理解している。道理を説いても、それが権力によってねじ伏せられることも、儒教的思想を曲解した上下関係によって虐げられることも、よく理解している。

私が好む映画は、大抵そういうものだ。他には十戒、スパルタカスなど、奴隷が自由を求めるというストーリーに感動する。そういう意味では私はあまり育ちの良くない人間である。歴史の先生が言うにはインドでは映画産業が盛んだが、ストーリーは大抵、階級で虐げられて云々...というものが殆どだという。カースト制度、儒教など、上下関係が厳しい世界と同様、私もインド人や韓国人と同じで、感覚が奴婢であり、よって、同じような立場の人間が成り上がる姿を見て喜ぶのだ。

さて、このようなことを冒頭に書いたのは、下の者、踏みつけられる側の感覚から、権威主義の何がマズイのか書くためだ。権威主義者というのは、大抵、ある何か正しいことがあって、それを錦の御旗のようにして、自分の主張が正しいと主張する。だが、権威に踏みつけられる側の人間から見ると、その程度の事で、人を踏みつけていいと考えるのは、十分な対価を払わずに、黄金を人から盗むようなものだ。

このような考え方になったは、私が踏みつけられる立場がどういうものか知っているからだ。私のいた家では、義理の祖母が権威の頂点にいた。4人の義姉がいたが、義姉の内、3人は、あの家の家系なので頭がいい。だから道理を言えば、ある程度は通った。異質だったのは、その姉たちが家を出て、その後、義兄の嫁として、あの家に来た義姉であった。非常に権威主義的な性格で、自分がスタンダードだと思った事にすべての人が従わないと気がすまない人、そのスタンダードに論理的に十分な正当性があればいいのだが、権威主義者にありがちな「これは正しいことだから、正しい」と恥ずかしげもなく考えてしまう愚かな人で、他人を縛るのには十分な縄の強度を持たない脆弱な論理しか持たない人だった。それだけならば、まだ良かったが、それに抗議する私を最高権威の祖母が黙らせた為、話が難しくなった。私は祖母の介入で無視や否定ができなくなってしまった。

道理がなぜ必要なのかというと、それが物事に節度をもたらすからだ。道理を持たず主観で物事を裁くと、都合のいい理屈で他人を縛って、際限なく人を縛り上げる世界が生まれる。それではダメなので、人間社会では法律や道理を重んじるのだ。よって、そういうものが希薄な主張は、否定することで、物事に限度を設けて、一方的に虐げられるものをなくそうというのが、法律や道理の本来の目的である。

しかしながら、権威主義者は、そういう論理を無視して名分だけで自分を正当化しようとする。論理がないから、限度が生まれない。その主張は、度々、節度を超え、無限になる。無限の権利が主張できてしまう段階で、その権利を持つものと、もたざるものに二極化する世界が生まれる。それは、一方的な正義と、その正義によって悪とされたものに分けられる。そして、悪とされたものの権利は際限なく奪われ、最終的には、正義を持つ貴族と、それをもたざる奴隷になる。その権利関係は、∞(貴族):0(奴隷)となる。

私は∞や0ではなく、きちんとした実数で、互いの立場を有限な形で公平に裁くための論理を重んじる社会、それが、大切だと思うからこそ、道理や論理を重んじる。それを軽視し、名分のみで自己を正当化することがあってはならない。主観による正当化は、この∞と0の世界の温床になるため、厳しく否定しなければいけない。しかし、権威主義者というのは、その∞側の権利を欲するのだ。彼らは、踏みつけられるアリや雑草の気持ちが分かっていないか、なぜ、それがダメなのか理解していないのだ。

例えば、経済のために、何をしてもいいかというと、そうではない。そこに節度を設けないと、∞と0の関係が生まれる。日本は自殺者が3万人、戦争並みの死者数だ。人が死んでしまっては、0である。私は、死という0を否定する。その対極にある∞の権利を主張するような名分も否定する。∞を認めれば、その対極に0が生じる。よって、経済のために何でもかんでも許すような論理には反対する。経済は人が生きるためのものであり、そのために人が死んでしまっては本末転倒なのだ。労働時間を長く出来るようにすれば、人が過労で死んでしまう。故にそれは認められない。そう言う事を認めてしまった韓国では、日本以上に自殺率が高い。私はそれは間違っていると思う。人が死んでしまうという事実を以て、それは否定されなければいけないと思う。

自殺者数(10万人あたり)
 韓国:31.2人(OECD加盟国で一番の自殺率)
 日本:21.8人 

私が権威主義者を否定するのは、彼らがこの∞を好むからだ。そして、その∞を認めた時、その対極に0が生じ、最悪の場合、それは死を意味する。あまりに危険なので否定する。限度を設け妥当な水準にすること、それが公平だと自分は思う。私がTPPを否定するのは、自由競争の名分のもとに、労働者の命を粗末にしたり、環境を破壊してもよいという理屈が通ってしまっているからだ。特に国際紛争解決センターなるおかしな裁判所の判例を見ると、それは、まさしく私が忌み嫌う無限の権利を主張するものの主張であり、それは非常に危険なので、否定しなければいけないと考える。

国際紛争解決センターの判例
「国家の何かの処置によって投資家の資産価値が減少し、これが協定違反ならば賠償の対象になると判断する」

投資家の資産価値が減少し、それが協定違反ならば、倍賞の対象となるとあるのだが、問題は、国家には国際協定以外にも国内法があり、その国内法の縛りを無視していることだ。つまり、この論理だと国内の環境規制や労働規制なども否定できてしまう。このような文言では、協定以外のルールを守らなくていいわけだから、かなり広範かつ無制限の権利が主張できる判例といえる。こういう有限のように見せかけた無限の権利を許す主張が、人々を二極化し、奴隷と貴族とに分ける。新たな階級制度を生むことに繋がる。それ故、私はTPPを否定するのだ。競争という名分のもとに、ありとあらゆる権利を踏みにじる新自由主義という名の権威主義に私は反対するわけだ。