SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

ルールの中で一番粗悪なもの

ルールの中で一番粗悪なものは、そのルールを作るものに、無限の権限が発生する条件があることで、言ってみれば、無制限に拡張できるルールである。コンピュータープログラムでは、無限ループが生じてシステムがフリーズする。人間でも同様で、歴史上、そのようなルールがあると、下にいるものは苦しく、上のものは栄誉栄華という格差が生じる。また、そう言うルールは、正義や常識の仮面をかぶって主張されるので、教養のある人は、一見、正義に見えても、条件が限定されないルールは悪いルールだという歴史の現実を理解している。実際、法律というのは、そういう事をきちんと配慮して設計される。

ルールとは若干違うが、財政問題、国際競争力という言葉も同様の臭がする。というのは、それのために、ほぼ無制限に人々の権利が侵害されているように見えるからだ。有限であるためには、それがどの程度のものか知るために、全体的で包括的な数字が伴った報道がされなければいけないが、日本のマスコミはそれをせず、人々に苦役を無制限に強いろうとしている。まるで打ち出の小槌でも振るかのように...

 「国際競争力のために残業代ゼロや非正規雇用は仕方がない」
  →実際には、人件費削減は株主への配当金や内部留保
  →無制限に搾取する口実になっている。
 「財政問題のために福祉切り捨ては仕方がない」→無制限に搾取
 「福祉のために消費税を」
  →実際には、法人税減税に使われ福祉には使われていない。
  →一方で切り捨ては仕方がないと言って削り
  →一方で福祉の為と言いながら消費税を法人税減税に使い矛盾している
  →その矛盾の中、富裕層への減税は確実に進められている。
  →無制限の搾取(循環無限ループ)

→そうであるならば、それをどの程度やれば、充足するのか、全体の数字を元に、必要な数字の伴った説明をしなければいけない。その数字が出てこないことに非常に大きな不信感を感じる。その数字もなしに無限に請求されても困る。ルールに有限性がない。

もっと言うと、そういう理屈で、若者(非正規雇用は女性が多い)からいい年した大人が金を巻き上げるとは、人としてどうなのかと思う。

私が義姉と仲が悪かったのは、彼女がこのルールとしては、粗悪とされる条件が無制限になってしまうルールを私に設定したからだった。彼女は、大抵、正義や常識を振りかざして、そういうルールを私に設定するのだが、正義や常識といえども有限であらねばならず、無限はダメ、他人に無限の要求をしてはいけないという一般的教養がない段階で、子供の頃の私に馬鹿にされるのだった。私が、さらにその義姉を気に入らなかったのは、そういう無制限の条件が発生することを論理的に私に指摘された時、彼女の主張は「屁理屈」という極めて雑な論理で私の言うことを切り捨てたことだった。

屁理屈という言葉で他人の論理をすべてを否定できるのであれば、すべての主張に対し、その一言を言えば、否定できることになる。故に、そういう主張こそが愚にもつかない「屁理屈」であり、全く評価に値しない、もっと言えば、相手が言ったことをそういう根拠の無い論理で否定することは、個人攻撃であり、人格否定である。

私は、大人のくせに、そういう一般的な教養のない義姉が大嫌いだった。主張がとにかく雑であり、厄介なのは、それを正義や常識という錦の御旗を振るって、そういう条件無制限のルールを設定して、誰の迷惑にもなっていない状況に規制を設け、窮屈にする義姉のやり方は、あまりにも無駄が多く、そして、無意味で、得るものがなく、その上、人を苦しめるという最悪のものだった。私が論理的でないものが嫌いのは、こういう義姉の傲慢さの源泉が、特定の正義や常識を設定すれば、何でもかんでも無制限に通るという雑な発想にあった。私には、それがどうにも我慢がならなかった。そういう傲慢さが通るのも、彼女が非論理的だからだ。だから、論理的ではないものが嫌いなのだ。

規制を設けるにしても、そこに有限性をもって、妥当なものであれば、私はいつでも聞いたのにもかかわらず、それを彼女はしなかったのは、彼女の劣等感のなせる技であろう。そして、私の合理的な主張は、その劣等感に火をつけるのには十分であった。当時の私がしなければいけなかったのは、他人の劣等感を刺激せず、自分の主張を優しく、相手に問いかけることであったが、私は、そこら辺を容赦なく相手を断罪したため、家が争いの渦に叩きこまれ、そこを祖母が出てきて、私の口を塞ぎ、そういう雑な主張をした奴は断罪されず、私のみが断罪されるという事になった。このことで、私は非論理的なものも嫌いになったが、同時に不公平なものや事なかれ主義も嫌いになった。

益々、家族との溝が深まるのは、私が強い口調で相手を非難したからだった。私は体が疲れている時に、無意味なルールで休息する場所を奪われ、当時の状況を考えると慢性疲労症候群によく似た症状をしていた。あの家は、不公平、非論理的、無責任がはびこっており、それに私が怒っても当然であったが、しばしば、その怒りは状況をさらに悪くした。妥当であることが、正しいとは限らないのだ。妥当というものは、それを公平に評価できるものの中でのみ成立するものであって、私の家には、それはなかった。あったとすれば、義父くらいだった。そういう意味では、あの家の中で最も論理的で私にとって信頼できたのは義父くらいだったのかもしれない。私にとって義父は、論理的で妥当なルールが適用される存在だった。