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日本停滞の遠因、朝鮮王朝の「内訓(ネフン)」

日本停滞の遠因、朝鮮王朝の「内訓(ネフン)」

〈続 朝鮮史を駆け抜けた女性たち④〉 最悪のサイコ?−昭恵王后韓氏
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/06/0906j0509-00002.htm

元々は、昭恵王の母親(昭恵王后韓氏)がその妻である尹氏を陥れるために作った訓示のようなもので、非常に姑に優位なルール設定がされている。これは儒教を己の権力闘争に悪用した悪法である。これが日本の停滞の遠因というのは、この内訓の内容が、江戸時代までの日本の女性の考え方として普及していたからである。これは、明治時代の女性にまで影響を及ぼし、結果として、それを姑に持つ昭和、平成の女性に影響を与え、それが結果としては今の子供達にも影響を与えているのである。

その内容は、年長者、特に姑に優位なルール設定がされており、その傾向は、今の野田総理の行動にも現れている。日本の事なかれ主義のルーツは、この内訓にあると考えられる。基本的には対立を避けるために年長者の意思に従うという姑の権力を擁護するために作られたものなので、嫁の発言権は認めない。

しかし、彼女の晩年は仏教に傾倒するなど、基本的に儒教とは違うものの考え方も認めている。要するに権力闘争に儒教を利用し、内面の心の平安には仏教の教えに傾倒していたのではないかと思われる。仏教は儒教と違って、罪人に対しては非常に寛大であり、彼女自身、自分が王の嫁の尹氏を死に追いやった罪から逃れようと仏教に傾倒していたのかもしれない。そういう意味では哀れな女性であった。最後は、尹氏の子供である廃王燕山君に報復を受け、あっけなく68歳で死ぬ。

彼女は権力闘争に勝つために内訓を定めたのであり、後世の人間がこれを引き継ぐことはなかった。しかし、その内訓が権力闘争において便利な道具であったために老人に悪用され続け、その影響は連綿として続き、王家のみならず、一般民衆の間にも広まり、結果として、その老人優位のパワーバランスが、後世に伝わったものと考えてよいだろう。

その影響は時代が進むごとに薄れているが今だ健在で、安易に人を黙らせたり、老人が一方的に若年者を裁くことができるという特徴において顕著である。問題はルールなきルールといってもいい程の姑という特定の立場の人間の裁量権が大きすぎて、恣意的な裁きが可能になっている点である。魑魅魍魎が飛び交う宮廷では、これほどの権力が必要だったかもしれないが一般社会において、このようなルールは、必要のないものである。むしろ権力の乱用を招く有害なものである。また、儒教の最高の教えである「仁」の教えにも反している。「仁」とは優しさのことであり、儒教では、他の教えに反しても「仁」の教えを優先せよと言っているのであり、その考え方からすれば、内訓に基づいて、尹氏を死に追いやることは、儒教の仁の教えに反する行為であり、内訓が、単なる権力闘争の道具に過ぎなかったことの偽らざる根拠といえよう。

この権力の道具にすぎない内訓が今の日本を苦しめている。大事なことは、これは古い時代の、特定の王朝の定めたルールであり、普遍的なものではない事だ。このような考え方は根っこから否定し、間違っていることを現代の考え方で証明し、排除することが正しい。おとなりの韓国では、このような発想がドラマなどを通じて誇大妄想として評価されているのに対し、日本では未だにその影響が続いているのは問題である。

内訓の内容
三従、七去!驚
http://blogs.yahoo.co.jp/shinchelove2/29799986.html

七去(これに従わない妻は離縁の正当な理由になる)

1.姑に従わない妻(姑のチェック体制が皆無)
2.息子を産めない妻
3.淫乱な妻
4.嫉妬深い妻(感情も自由に表現できない)
5.口数が多い妻(言いたいこと言えない)
6.盗み癖のある妻
7.病気を持った妻(病に苦しむ妻は救わない)

三従(理由なく上位者に一方的に従う自浄能力のない価値観)

婦人に三従の義あり、専用の道なし
 故に未だ嫁せざれば父に従い
 既に嫁しては夫に従い
 夫死しては子(男子)に従う

三従は徹底的に男尊女卑であり、身分、立場に関わらず、道理に基づいて、物事の成否を決める現代の視点からは、まったくもって合理性を欠くものであり、男の一方的な意思を女性に押し付けて良いとする間違った観念である。三従のように絶対的な序列を定めるのは、民主主義の考え方と逆行するものであり、恣意的な差別そのものである。

七法は、姑に従わないとダメという考え方は、姑が絶対者だと定めているので、非常に問題、これは基本的に王太后を絶対者だと定義するために定めたものであり、普遍化するべきではない。口数が多い妻、これは宮廷では、ちょっとした一言が命取りになるため、離婚の理由となるとしたものであり、宮廷の権力闘争と関係のない一般庶民に適用するべきものではない。

この七法三従の問題点は、七法の口数を規制する考え方が言論統制に通じ、姑を絶対者とする傾向が独裁的である点、これは独裁権を行使して王太后の権力を磐石にするために作られたもので、法のもとの平等とは言いがたい非常に偏ったルールである。だが逆の視点から見ると、クソババア(王太后)にとっては、とても便利なルールであり、非常にクソババアを甘やかすルールである。正常な感性を持つ人ならば、その特異性、一般民衆とは隔絶したルールであることは分かるのだが、それが分からない人間には、とても重要な教えらしい。私の祖母がこれと全く同じ考え方をしていた。元々が人を陥れるために作られたので、その威力が凄まじく、周囲を苦しませたのは言うまでもない。

日本がバブル以降、停滞した遠因として考えられるのが、内訓の影響であると思う。それは、昭和天皇の死から始まったと私は考える。元々、古い女性に影響を与えていた内訓(ネフン)の考え方は閉鎖的で、それが優位になると事なかれ主義が横行してしまう。しかし、それが横行しなかったのは、それよりも序列が上の昭和天皇がいたからに他ならない。基本的に男社会と女社会とでは序列の形態が異なる。男の社会とは、社会における序列に支配されている。この場合、昭和天皇をトップとする序列ができている。逆に女の社会の序列とは家族の中での序列である。さて男社会のトップたる昭和天皇がいなくなった段階で精神的なパワーバランスの均衡が崩れ、女社会の内訓の影響を受けた閉鎖的な価値観が優位となった。そのため、安易な事なかれ主義が広まった。

要するにトップがいなくなると男社会は、それを正当化するものを失ってしまう。相対的に内訓の影響を受けた古い価値観が優位になってしまい、事なかれ主義が制御されなくなり氾濫した。事なかれ主義が氾濫すると、社会に自浄能力がなくなり、結果として何の問題も解決できなくなる。よって、停滞するのだ。

元々、内訓のようにルールを支配して、他人を陥れるようなものというのは、人に恐怖を与える。ルールに従う大多数と少数の戦いにおいて、非常に不利な戦いを強いられる。これは村八分であり、村のルールを支配するもの、つまり、内訓のようなルールが優位な状態は、結果として、村八分であったり、事なかれ主義であったり、とにかく、ちゃんとした理由もなく、争わないで事を治めよという圧力が常日頃からかかっている。その結果、新しい意見をちゃんとした理由もなく否定したり、問題解決と逆行する結果となる。これは、それらが、既存の価値観と対立し、争うことになるからである。内訓のように古い世代の言論統制を正当化しているような価値観は、改革のしにくいものとなる。争いが時には必要であるという男の価値観が優位にならないと改革のようなことはできない。陰にこもる内訓のような古い価値観ではダメなのだ。

今の時代は、男女同権の価値観を優先するべきであり、その価値観からすれば、必要な争いも是とされるべきである。何が何でも争うなという理屈では改革などできない。私が祖母と対立する上で全く刃が立たなかったのが、彼女は自分を正当化する理由が全くないのにもかかわらず、それを正当化できると頑なに信じていたこと、そして、周囲もそれを認めていたこと。内訓のようなルールが適用されていると、こういうおかしなことが起こる。理由もないのに自分が正しいと思い込める。そういう根拠のない正当性が問題なのだ。道理というものが何もなく、状況がまるで改善できない。
 
争いについて自分が考えるのは、小さな争いは、状況を改善することもあるのでして良い、しかし、人の命を奪うような後戻りできない深刻な争いはなんとしても避ける。それが現実的な正義である。単に争いを避けるというのを杓子定規に受け取らず、必要な水準とそうでない水準をより分けて分別を持って判断をしないと、それが変質して、村八分だとか、事なかれ主義になってしまうのだ。内訓のような考え方には、その分別が抜け落ちている。有るとすれば、年長者に、その分別に当たる部分を依存しているのだが、年長者をチェックする項目が無いので、年長者が暴走した時、誰も制止できない状態になる。そして、その年長者が秩序を保つ責任を放棄した状態が今の日本である。何も解決できない。よって停滞する。議論では解決できないのは、対立を安易に全否定する価値観が、基本的に議論そのものの存在を否定しているからである。日本の議論というのは、議論を打ち消すものと、そうでないものの対立にすぎない。だから結論など至りようがないのだ。

内訓は、そもそも他者を陥れるために作られたものなので、それを正しいと信じてしまったものが、結果的に、村八分をしたり、事なかれ主義になってしまうのは、当たり前なのだ。そもそもフェアな対話などせず、とにかく自分に優位な理屈を正当化するために作られたものだから、そうなってしまう。こういう改革(結論)の出来ない理屈が今の日本を停滞させているのだ。