SKY NOTE

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ネットとテレビの違い

最近、地デジの電波がおかしく、テレビが見れなくなったので、ネットに移行しようと考えていると、そもそもネットとテレビの違いとはなんぞやと少し考えてみようと思った。
 
1.テレビのメリットはオートローディング(自動読み込み)の手軽さと面白さ

  • 意図しない変化が常にある事が面白いのだ。黙って座っていれば何も考えなくても常に変化が供給されるのがテレビの優れたところだ。自分の望むものを選ぶという事は、逆に言えば、自分の予想通りのものが出てくる。これはある意味、予想通りで面白くないのだ。チャンネルを変えれば、おもちゃ箱をひっくり返したように色々な情報が転がっている。そこが良い。でも、逆に言えば、これをネットで再現できればいいという事でもある。ネットの方が電波という制約に縛られない分、もっと面白いものが作れるはずである。要するに、テレビのメリットを更にテレビ的にしたメディアもネットならば出来てしまうわけである。

 
2.ネットのメリットは、「深さ」

  • 内容の深さがネットのメリットだ。しかし、それを掘り下げるのには時間と労力が必要である。ソファに座りながら、リラックスしてみるようなものではなく、何かを探求するのに向いている。

 
3.テレビは受動的であり、ネットは主体的である。

  • テレビは視聴者に何も求めない、タダ座っていれば、自動的に情報を提供し続ける。しかし、ネットの場合は、自分の意志がなければ何も反映されない。そういう意味で能動的であり、主体性を要求するのがネット、受動性の代表格がテレビといえる。テレビに対して市民が与えられている発言権は、チャンネル切り替えのみである。

 
4.テレビは独裁的であり、ネットは民主的である。

  • 独裁者はテレビやラジオなど、一方的に情報を伝達するメディアを好み、電話やインターネットなどの双方向メディアを嫌う。なぜならば、自分の言いたい事を一方通行で言えるテレビやラジオと違い、ネットや電話などの双方向メディアでは、相手と自分の発言権が対等であるからである。つまり、独裁者は民主的なメディアが嫌いなのである。

  
私のテレビ批判論
これらの要素を総合してテレビとネットは何かといえば、テレビよりもネットの方が、あらゆる情報のアクセスが自由であるために主体性を要求し、双方向のメディアであるため、民主的であり、それ故に多様な情報を双方向でアクセスできる事によって深い知識も得られる。同時に多様な意見の存在を認める事が出来る。逆にテレビは、電波の有限性から来る少数の人間に発言権が偏る傾向があり、多様性という点でネットに劣り、その独裁制の弊害が、今回の原発事故にも影を落としている。東電を始めとする電力各社のテレビ広告費の総額は年間2000億円と言われており、その中で原子力の正当性が繰り返し伝えられてきたが、このあまりにも大きな発言力が、他者の批判を跳ねのける力ともなってしまい、結果的に原発津波によって電源を喪失する危険性を指摘した共産党の吉井英勝議員の主張のような正当な意見をテレビの大きな声でかき消す事が出来てしまった。それによって原発の問題は放置され、今回の津波による原発事故を招いてしまったとも言える。つまり、テレビに情報を依存し過ぎると、結果として、そのテレビをスポンサーとして支配するものに情報のコントロールをされてしまうのだ。その結果、本来市民に伝えられるべき情報が、コントロールされたり、隠滅されたりして、結果的に私たちの損害となって降りかかってきているのだ。
 
民放テレビ局の内部にいた人達は、民放テレビ局は市民の為にあるのではなく、お金を払ってくれるスポンサーの為にあると公言して憚らない。確かにその通りで、スポンサー収益によって成り立っている民放テレビ局は、クライアント(広告主)には逆らえないのだ。つまり、こういう資本支配下にあるメディアが公正な報道が本来出来るものなのかと言えば「否」と答える以外にないであろう。実際、日本のテレビ局やメディアは、嘘を報道したり、特定の情報を誇張したり、隠滅したりする行為が最近のネットの普及によって徐々に分かるようになっている。ある意味、テレビの仕事は、広告を流す事が本来の仕事で、番組は、その広告を見てもらう為の客寄せパンダとも言えるのだ。私たち視聴者から見れば、番組が主で、広告は従であるが、民放テレビ局の収益モデルから言えば、広告が主で番組が従である。このギャップに気づかないといけない。それがテレビの収益モデルから見た実態なのだ。
 
参考資料:太陽光発電が高いなんて嘘
 
そこで独裁的なテレビメディアの弊害をなくし、より深い情報にアクセスできるが、面倒くさいネットをより簡単かつ多様な意見を担保する民主的なメディアとして活用する事が未来のメディアのあり方として妥当であるといえる。そういう意味でGoogleTVの様なネットテレビやiPadなどのタブレットPCによる電子出版の流れには注目している。本当の意味での民主的で多様なメディアが普及することが、独裁による弊害をなくし、偏りのないニュートラルな社会へと導く事になる。生物に多様性が重要であるように、情報にも多様性が必要である。今回の原発事故は、その情報の偏りから生まれたとも言える。東電は文句を言う奴を黙らせる事が出来た。そのことが、批判されない状態を生み、それが原発の安全対策を疎かにする結果となったとも言える。問題が指摘された時、それを黙らせる事が出来ず、批判に耳を傾けていたら、今回の原発事故は充分防げた。だけど、その批判を無視できる力を持ってしまった事が、東電の悲劇の始まりとも言えなくもないのだ。そして、それは今回の原発事故によって被害を被った人々にとっても悲劇であった。情報の偏りによる悲劇である。
 
適切な批判を黙らせる強権の存在はあってはならない。情報は権力だと言われるが、その情報をコントロールできる権力を特定の私企業に与えるリスクを考えた時、現状の民放テレビ局のビジネスモデルが果たして妥当といえるのか疑問に思えてくるのだ。社会の公器として、情報を提供する場合、特定のスポンサーに発言権を過剰に与える現状の民放テレビのビジネスモデルよりも、多様なスポンサーに分散して広告を設定するGoogleのビジネスモデルの方が先進的で独裁による弊害が少ないといえる。限られた電波帯域に限られた情報を提供する事によって、結果的に独裁的になってしまう現行の放送メディアよりも、無限とも言える情報帯域の中で多様な意見が多様な利益に基づいて錯綜している方が、情報の健全性は結果的に保たれるといえる。多様性が真のニュートラルを生む、それが民主政治の真骨頂であり、その多様性を否定した時、そこに独裁という影がはびこるようになる。歴史はいつも、そう忠告している。
 
世の中ピンとキリを両方理解している方がバランスよく判断できるものなのである。片方だけしか知らないとか、安全神話とか、そういう偏った情報ばかりになってしまうと、結果的に正しい判断が出来なくなる。だから、正の要素も負の要素も両方があり、それに適応する事が結果的にまともな人間を増やす事になるのである。だから、中央集権とか、純血主義とかそういうのはダメ、ヒトラーもそうだったように、ああいう偏ったものは弊害が大き過ぎる。箱入り娘のような偏りのある人間よりも、あらゆる情報にアクセスし、自由に考え、判断できる奴の方が遥かに正しい判断が出来るのである。そういう意味で、ネットの存在は、人々の意見の多様性を担保する理想的なメディアといえるのである。ピンキリを理解するのに適している。だから、負の要素があるからダメというのは、おかしいのだ。社会そのものが、そういうものなのに、それを見せないようにして、純血主義を貫いて、結果的には、世間知らずを大量生産するだけじゃないか?危険を恐れる感性こそ、その人を守る事になる。安全神話に躍らされて原発事故のような大きなのがドカンと来るよりはマシなのだ。包丁が危険だからといって、包丁を触らせないよりも、包丁の恐さを教える事こそ、真のモラルといえる。それを単に見せないようにするのは、危険に対して無知になってしまい、かえって危ない。本当に安全を考えるのならば、何が危ないのかという負の情報をキチンと教える事が大事。対応できるレベルに合わせて情報を調節できる事は大事だが、社会全体で、情報を統制しようというのは、大人を単なる子供として定義している。そして、その情報を管理する人間が真の大人というわけだ。でも、私は、そういう特権意識に賛成はしない。そういう意識には、大抵腐敗が伴う。自分が偉くて正しいんだと過信し、腐敗していく、中世ヨーロッパの貴族階級の発想だ。わたしから言えば、古くさい発想といえなくもない。既にフランス革命によって、滅びた発想だからだ。未だに民主主義以前の発想が生きているのを見て、シーラカンスの化石を見る思いだ。そして、そういう生きた化石(自分は正しいという特権意識)が今回の原発事故を起こしたのだ。古くさい特権意識に縛られ、己の間違いを受け入れる謙虚さが彼等にはなかった。それ故に間違いを犯すのだ。
 

Wikipedia:シーラカンスの祖先の化石