SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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自然を恐れるセンス

子供の頃、小川をせき止めて遊んでいたら、回りが水浸しになった上に、下流でその川から池の水をとっていた人が、声を上げたので、堰を切って一気に貯った水を流して、その場から逃げた。すると、まるで今回の津波のように周囲のゴミを巻き込みながら水が下流に流れていった。これをやった時、恐くなった。その後、もう二度と川をせき止めて遊ぶのをやめた。子供の頃思ったのは、小さな小河でも結構なパワーがあり、それだけでも恐いものなのだ。そういう悪戯を子供の頃していると、まず、それよりも遥かにデカイパワーを持つものに対しては、充分警戒する感性を持つはずなのだ。大事なのは、そういう危険に対するセンス。子供の頃遊んでヤバい目に遭っていると、でっかい石に掴まったら、その石が崩れて一緒に転がって落ちるとか、(場合によっては、その石の下敷きになって死ぬとこだった)そういう体験をしていると、恐いものが結構あるので、自分よりも強いもの力のあるもの、そういうものに畏敬の念を持って接する事が出来る。川で溺れて助けてもらったり、雪に埋もれて動けなくなり、助けてもらったり、氷の上を歩いていたら、氷が割れて冬の冷たい水の中に落っこちたり、色々とトホホな事をしていると、水も恐い、土も恐い、雪も恐い、石も恐いと、恐いものが結構あったりする。あと、スピード、下り坂で自転車で加速がつき過ぎて、しかも、路面が砂利でおもいっきり転んで、しばらく呼吸できなくなったり、恐いものを知っていると、大抵は、警戒するものである。
 
河の水だと、一見緩やかな流れのようだけど、そのパワーたるや尋常じゃなかったり、まぁとにかく、何が言いたいのかというと、「恐いものは恐れとけ」と言う事、恐れて、注意しておかないと大変な事になる。私はよく1人で遊んでいたのだけど、もし、1人で遊んでいる時に雪に埋もれて動けなくなったら、一巻の終わりである。その時に友達がいて良かったと今でも思いだすたびにありがたいと思う。というわけで、私は1人の時には、雪の深そうなところには絶対近寄らない。
 
そんな私が、ミスをした事があった。それは、その日は昼は晴れていた。冬であったがちょっと遠くの温水プールへ行った。帰りに吹雪になり、しかも、その道は人通りの少ない道で雪がどんどん積もっていった。雪で自転車で走れなくなり、吹雪の中、数キロメートルを自転車をひきながら家路へと急いだ。夕方だったのでだんだん暗くなり、田舎なので街灯もない。その中を凍えながら、雪がこれほど恐いものだと感じた事はなかった。自分の体の体温を奪い、手はどんどん雪で凍え、体温を奪われる。道は歩きにくく、ブルブル凍えた。薄暗くなった空がこれほど恐いと思った事はなかった。例え、私が凍えて苦しんでいても、容赦なく降る雪を見ながら思った事は、天気予報も見ずに単に昼間晴れているからって、大丈夫だと思った自分が甘かったと心底思った。自分の甘さを心底、思い知った体験だった。ようやく帰ってきた時には、「ああ助かった」と安堵の声にもならない思いが私を包んでいた。
 
よく、想定外とか言うけど、それって、わたしは甘かったと言っているのと同じ、その甘さが自然に対しては命取りになる事がある。そういう事を体験している人間とそうでない人間とでは、考え方が違う。自然はわたしの意思を汲み取ってくれはしない。自然はそこに「ある」だけ、エホバの神の言葉に「私は、そこにあるもの」「私はアブラハムの神、あってあるもの」(映画「十戒」)という一説がある。まさにそれ、そこにあるのであって、それに人間が何をしようとも一切関係のない絶大なる存在が自然である。その力の大きさにきちんと恐れるのは、決して臆病ではなく、現実認識として、それが正しいのだ。そういう正しい認識にたっていれば、今回の原子力発電所の事故も起こらなかったと思うのだ。