SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私の文章の読み方(評価の仕方)

文章を読むと思考プロセスが読み取れる。そのプロセスの傾向から、何を意図しているか大体透けて見える。文章でより多くの比重を使っている場所は、筆者が強調したい所であったり、相手に対する対応の仕方で、その相手に対して、どういうスタンスで向かっているか分かる。
 
そういう文章から読み取れる中で、私が重視するのは対称性
 
1.相手と自分との対称性(公平な基準で相手と接する事)

  • 同じ基準、同じ(対称性のある)条件で考えて妥当な事を考える。これは、かなり難しい。相手の状況を把握する必要があるからだ。

 
2.相手の意見と自分の意見の対称性(同じ土俵で考える)

  • 同じ条件で考えてみる。つまり、相手の意見を批判するには、ただそれを非難するだけでなく、自分自身にもきちんとした代案を持っている事が求められる。それがないのに人を非難していて、「じゃぁお前はどうなんだ」と言われて何もきちんとした意見が言えなかったら恥ずかしいでしょう。非難するのは簡単だけど、その裏付けとなる代案を提示するのは難しい。この難しい事を省いて、相手の意見を批判する事は出来ない。そういったものがないのに批判するのは無責任。結局、建設的な代案がなければ、問題があるが同じ事をしなければいけなくなるのだから。

 
3.資料の対称性(基準の対称性

  • 例えば、公平に比較するには同じ基準で比較しなければいけないのに、それぞれに別の基準で比較しようとしていると、それは比較検討材料にならないという事で排除する。これは別の基準を持ち出せば、いくらでも数字やデータをねつ造できる為、不正を排除する為に重視する。

 
この三つが重視する事。
 1.人格の対称性(尊厳の対称性
 2.主張の対称性
 3.基準の対称性
 
こういう基準を用いて、相手と接する。まず、対照的な基準を用いて、相手の立場と自分の立場を公平な基準で比較する。主張の対称性は、代案を常に考えながら、その代案が思いつかなければ、問題点を把握しつつも、それ以外にないというスタンスをとる。基準の対称性はデータの信頼性を確保する為に行う。
 
対称性のフィルターを通す事で、私の分析の精度は向上する。
 
1.人格の対称性

  • 相手の立場になって考える。よって、相手の状況を把握する事を重視する。これは、相手の基準で物事を考え、相手の視点に立って考える。これが難しい。私もしばしば読み取れない事が多い。

 
2.主張の対称性

  • 代案(式)をメインで考える。批判はそのおまけ(結果:答え)に過ぎない。代案を考え始めると、相手の思考の跡を辿る事になる。そこで、相手を上回れば、批判してもいいが、それがないのに批判するのは、言いっぱなしの議論になり、収拾がつかない。相手の主張という結果を解析し、その思考プロセスを精査する事で、相手の直面する問題がより深く理解できるようになる。

 
3.基準の対称性

  • 数字やデータの比較の基本は、同じ前提条件で比較する事を心がける。こうすることで精度の高い比較が可能となる。

 
こうやって精度を高めた上で、批判するなり、賛成するなりする。評価を公平に行う為には、対称性を基準にする。この対称性が崩れると、たちまち議論は崩壊する。
 
1.人格の対称性が保証されないと...

  • 個人攻撃の応酬になる。(議論以前の問題になる)

 
2.主張の対称性が確保されないと...

  • 平行線の議論が続く(結論が出ない)

 
3.基準の対称性が保証されないと...

  • 偽善や差別の温床になる。(誤った結論に導かれる)

 
この三つは、正しい結論を導く為の最低限の条件であり、この三つがあったとしても難しい問題は、解決できない事が多い。よって、この基本的な土台すら守れないようであれば、「どーするんじゃい!」という事になる。
 
ただ、こういう対称性(フェアプレイ)を基準にしていくと、大体、正しい考え方になるのだ。間違ったときは、これがきちんとできていなかったからと考えてみると、自分のミスが分かる。それでも間違えるのは、正しい情報がなかったり、自分と全く違った感覚の持ち主については理解できないなど、情報の入り口から問題が生じる事が多い。ただ、この三つを気をつけない文章と、気をつけている文章とでは、文章の品格が違うと言っていいと思う。私は、そこを読み取って評価したり、考えたりしている。だが、それでも、ミスを犯す事は多いので、もっと気をつけなければいけない事が沢山あると思う。
 
私が苦手なのは、人格の対称性の評価、これには感情が関わってくる事が多い。他の主張や資料の対称性は、論理と数理で対処できるのだが、人格については、非常にアナログの要素が多くて、評価が難しく、論理や数理と相反する傾向もあるので、非常に対応が難しい。ここが把握できるのと出来ないとでは雲泥の差が生じる。
 
エヴァンゲリオンの赤木博士の言葉
「男と女は解らないわ。ロジックじゃないのもの」
という言葉は、理系の多くの人間は共感するのではないだろうか?
 
兼続と三成の違いが、この人格の評価だ。
関ヶ原の合戦で作戦上は勝利していても、三成は人望が薄い為に裏切りやサボタージュに見舞われて結局負けてしまう。論理や数理では答えを見つける事は出来ても、それを実践する為に必要な人間がついてこない。私はどちらかというと三成側に位置するので、人望も薄く、味方は少ない。よって、私は勝てない。少なくとも仲間が必要な戦いには勝てない。単独での戦いであれば、勝てる見込みもある。そもそも、答えを見つける事に執着し、それ以外にはあまり興味がないのは、私にそれを実践する人望がないからである。仲間という言葉を聞くと、裏切りと意思疎通の問題ばかりが頭によぎって、安心できない。私にとって一番安心できるのは究極的には孤独である。三成の気持ちはよくわかるのだ。重要な所で裏切られたりするので、味方とは時限爆弾みたいなものとしか考えていない。
 
よって、人望の薄い私は、人望の厚い人間に意見を言う事には興味がある。なぜなら、自分の考えた「答え」を活用できる可能性があるから。第一、裏切られる心配がない。そういう裏切りがない状態で私の案が実行されると成功する事が多い。
 
そういう結果を見たとき、「なんだ、俺は間違ってなかったじゃないか」と思うのだが、やはり、デジタルの私にはアナログは理解しにくい。答えを見つけるのにデジタルな発想は役に立つが、味方をつけるのには適していないと思う。
 
ロジックや数理の答えを見つける作業では、「切る事」が重要である。無駄を「切る」無意味なものを「切る」そうやって切って捨てた後に、最善の答えが見つかる。しかし、人間を相手にそれをやると、敵を増やし、自分をどんどん不利な立場に追いやってしまう。また、人間の意欲すらも切り捨ててしまう傾向があり、人間相手に評価を下す際には注意が必要なのだ。人間の場合は、切らずに生かす事が必要になって来る。そうすると、意欲や味方が生じ、それが結果としては強さとなって現れる。だから、私は成果主義の元で生じる安易なリストラには反対だった。そういう事をすると、結果として、三成の西軍と同じで裏切りとサボタージュで機能しなくなる事が分かっていたから。
 
安易な切り捨ては、心の債務を溜め込む事になり、それは裏切りという形で清算される事になる。よって、なるべく切り捨ては避けた方がいいのだが、そうすると無駄が蓄積する事になり、システムがオーバーロードしてしまう恐れがある為、そのさじ加減が難しいのだ。