SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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ラモスの言葉「選手時代の心捨てる」

3月4日の東京新聞の監督になったサッカーのラモスの言葉にハッとさせられる。「選手時代の心捨てる」とある。それによれば、「なんでもっと練習しないんだ」との事、だが、ラモスのように一生懸命練習する選手は稀、そう考えると、選手それぞれにあった指導法があるとの事だった。

それについて自分も「厳しい批判に何でもっと我慢できないんだ」というラモスと同じような事を考えていて、揚げ足取りではない、正当な批判には、きちんと耳を傾ける必要があると感じる。冒頭の揚げ足取りというのは、受験勉強の感覚で批判してくるタイプのことで、受験勉強のテストは、落とすためにあるので、ちょっとでも、正解と違う所、ケチがつけられる所があれば、ペケになる。(重箱の隅をつつき、議論のテーマそっちのけのやつね)一方、議論における批判というのは、その議論のテーマにそって、その妥当性を論じる事にある。

議論(それが正しいか否かを論じるもの)と受験のテスト(落とすためにあるテスト)とを勘違いしているバカの言うことは聞かなくていいのだが、ちゃんと、その議論のテーマにそった正当な批判については耳を傾けないといけない。それについては、きちんと我慢して聞く必要がある。だが、それが我慢できない人間について、私はなんで我慢できないんだと思ったりもする。

私は2つの理由で、正当な批判を聞くときに我慢ができる。
1.揚げ足取りの批判よりも建設的であり、不毛ではない。

  • よく、いじめっ子に言葉尻をお捉えられて、からかわれたことを思い出す度に、それに比べれば、正当である分だけ、聞くに値すると思うのである。揚げ足取りは、議論のテーマから逸脱するだけでなく、果てしなく時間の無駄である。

2.天才だった義父の厳しい批判に比べれば、大したことはない。

  • 義父の批判は、将棋の強い人と戦うのと同じで、コチラの正当性が一瞬で根絶やしにされて、焼け野原状態になる。それに比べれば、大抵の批判というのは、根絶やしにもならず、かなり穏やかなものである。(私の心境は、マンガの「月下の棋士」第一巻に出てくる。主人公の天才棋士と最初に戦う坂東くんのようなもの、主人公の天才棋士に軽くあしらわれるだけで、自尊心根絶やしにされる板東くん)

だが、まず、毎日イジメられて、揚げ足取りが日常的に行われ、それに比べれば、はるかにマシとか、天才に比べてマシとか、若干、極端な例と比較していることに気づく、また、普通の人が天才の批判など聞くことなどない。そう思ったのは、自分のいた家(私とは血はつながってない)で出来のいい奴をネットで調べていくと、東大でもトップクラスの成績で卒業したと思われることから「あの天才家系のポテンシャルは、日本トップクラスなんだな」と思った時、考えが改まった。要するに、日本トップクラスのDNAを持つ人間達と話をしていたと考えると、自分の認識が非常に極端なものと比較していたと分かる。

そう考えるとラモスの言葉が身にしみて分かるのである。もっと、他人の身の丈にあった議論をしないといけない。正当な批判であれば、厳しい批判に我慢して当然というのは、私の目から見れば当然でも、普通の環境で、イジメられたこともない、頭の良すぎる連中と話したこともない、そういう人たちと私の境遇は違うのではないかと思うようになった。これは、運動の出来る奴が「なんで、体を鍛えないんだ」と私にいった時に私が「それは正しいが、しかし、運動の才能のない私にとって、運動するより本を読む方が価値がある」といったことを思い出す。私自身が、それを言っていたのに、運動ではなく、知的な分野で、相手に理不尽な事を要求していたのではないかと思うようになった。

私は、自分の批判が、天才に比べれば遥かに穏健である。それに恐怖することもない、極めて聞くのには楽な方だと思っていた。それに怒るのはオカシイとおもっていたが、それを比較していたのは、日本トップクラスのDNAとの比較というものである事がわかった時、これはマズイと思った。あれがトップなのかと思った。私の感覚では、世の中にゴマンといる「頭のいい人」だという認識しかなかった。下手なことを言うと頭を横からぶん殴られる様な批判が飛んでくるとか、聞くのに重力が2倍になるとか、恐怖を感じるとか、一瞬でこちらの正当性が根絶やしになるとか、そういう議論ではないのである。

だから、我慢出来てあたりまえだと思っていた。私の批判など、それに比べれば、重力増えないし、恐怖も感じないし、根絶やしにされることもない、だから、怒る必要なんてない、恐れる必要もない。小春日和のようなものだと思っていた。

だが、人によっては嵐のように厳しく、辛いものではなかったかと、運動の出来る奴が運動の出来ない私に向かって「なんでこんなことも出来ないんだ」と言っているようなものだったのではないかと、最近、思うのである。

 「人には人のベストがある」

とスポーツの出来る友人に言ったことがあるのだが、まさか、それが自分自身に向けられる言葉だったとはと最近思う。