SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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日本の多数決はアテにならない

私は自分の国の多数決をあまり尊重しない。それは民主主義を否定しているというよりも、その意思決定プロセスに問題があると思うからだ。日本の場合、皆の英知を結集した多数決というよりも、皆がお互いに横を見ながら合わせる事を目的とした多数決であるからだ。

孤立する事を極端に恐れるあまり、英知ではなく迎合を選ぶので、英知の結集ではなく迎合の結集となる。それが私が尊重しない理由だ。だから、とても合理的でない結論が日本の多数決においてなされる。

権威に極端に弱いのが、この国の多数決だ。権威は英知ではなく、声のでかさなのだ。知性とは別の方向で決定がなされるので、私は馬鹿げていると思う。本来皆の英知を結集すれば、最善の選択肢が選べるし、大体それだけの知性を持ち得ている国民である筈なのに、それが出来ない事で今の日本は停滞しているのだと思う。

この流れが始まったのは、1990年代からだ。自由の名の下に過去の良い文化まで失われてしまった。彼らの標榜した自由は単なる子供の自由で、社会性が伴っておらず、それが原因で極端な迎合意識に歯止めがかからなくなった。この結果、多数決の質が極端に落ちたと私は考えている。元々あった迎合意識を、規律や文化で押しとどめていたものが、幼稚な自由の名の元に、その全てを押し流した結果、駄目なものをさらに駄目にする最悪の結果を招いてしまった。

では、昔にあって今はないのものは何か?昔は寄せ集まる者を愚か者とする文化があった。「寄らば大樹の影」という言葉があり、権威に頼る者は駄目人間のレッテルを貼ったのだ。つまり、己の実力や能力ではなく、誰かさんの陰に隠れて力を得ようとする者は一クラス下の人間として扱われた。それ故に、人々は安易に迎合する事なく、自分の意見を言う事が出来た。そういう時の多数決は、それなりに英知の結集となり、賢明な判断が出来ていた。

しかし、90年代に入ってから、風向きが変わった。

「寄らば大樹の陰」から「寄ったっていいじゃん自由なんだし」に変わった90年代
つまり、権威に寄り添う様なランク下の人間に「自由」という免罪符が与えられ、いっぱしの人権が与えられる様になった。この事が結果として皆が安易に迎合する傾向を産み出してしまった。つまり、そういう人間が多数派になる事により「英知の結集」から「迎合の結集」あるいは「衆愚の結集」に変わってしまったのだ。

まるで、それはウィルスの様に日本中に広まり、日本人の迎合意識を高めてしまったのだ。それが結果として、合理よりも権威を優先してしまう様な社会を産んだ。そして、その事が、小泉の様な実力はないけれど、声だけはでかい政治家の登場を許してしまった。このような社会の多数決の質は低く、正しい判断が出来ず、日本の政治は劣化が進んだが、ここにきてようやく、薄日が射してきた。

ねじれ国会というが、今までの自民党一党独裁体制の方がおかしかった。別の意見を強行採決で封じ込めたり、憲法に違反する法律を作ったり、国民の情報を統制しようとする様な法律をいくつも作ったり、この政党は60年前の政党?と言わんばかりの酷さにさすがの国民もおかしいと感じてきたのだろう。

年金、道路特定財源など、自民党があまりにもヘボいので、権威よりも理性を優先せざる終えない状況になってきた。結果として、これからは

「寄ったっていいジャン自由なんだし」→「寄ってもいいけど責任は自分でとってね」に変わっていくと思う。自由って責任が伴うものだし、その責任を考えたら、単に迎合しているだけでは駄目ってこと。そして、それには合理的で無駄のない判断が必要になって来る事を皆が気づき始めていると思う。

つまり、90年代に犯した過ちが顕在化し、大きな問題となった結果、単に自由というだけでは駄目だという事が分かったのだと思う。好き勝手にやってたら後始末が大変になる。だから、賢く聡明でなければいけない。その為には安易に迎合するのはクールじゃないって社会に今は変わりかけていると思う。