SKY NOTE

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「正しさは、おいしい料理に似ている」

「正しさは、おいしい料理に似ている」

料理の下手な人の特徴(偽善や悪の特徴)

1.まず、味見をしない(自分のやっていることをチェックしない)
→センスを磨くこと自体をしていないから駄目(悪)
料理の下手な人は、味見をしないで作るから自分の調理の何がマズいのか分からない。そういうときは他人の意見を聞くとよい。料理がおいしいか聞くのは、相手の好みや趣向を聞き出し、改良するためである。正義も同じ。何が正しいか分からないといって、相手に聞く事を(味見を)しないのは駄目、常に経験不足の状態が継続し、偽善や悪に転がりやすくなる。(センスを磨かないからそうなる)

2.自分がうまいと思うものを他人に押しつける(独り善がり:相手を見ない)
→センスが閉じてしまって駄目(悪)
独り善がりは駄目、センスが閉じてしまう。これも悪(独裁者がその典型:ヒトラー/家父長制度で増長した家族)

3.レシピに頼り過ぎ(センスが磨かれないので何が正しいのか分からない)
→センスが磨かれないから駄目(悪)
杓子定規の正義は、偽善になりやすい。それは、ルールやセオリーに頼りすぎるとセンスが閉じてしまい、それ以上、磨かれないので、善悪の区別がつかない。そうなると、悪を行っていても善だと勘違いするような偽善がそこに生じる。悪例として、教育委員会悪平等、偽善などがある。一方的な暴力の否定(レシピどおりの正義)で弱者を徹底的に苦しめ、子供を自殺に追い込む冷徹さを生む。レシピ(安易な定規)に頼るのは、センスのない正義、つまり偽善である。

4.強力な調味料に頼り過ぎ(無闇に強権を発動する)
→素材の良さを殺してしまうから駄目(みんなの元気を奪ってしまうから駄目(悪))
塩や醤油など味の強い調味料に頼り過ぎると、素材の持ち味が死んでしまい味が単調になってしまっておいしくない。これは正義についても同様で、強権に頼り過ぎると個々人の持ち味が生かされず、皆の元気がなくなってしまう。これは悪である。安易に強権に頼らない微妙なさじ加減こそが正義なのだ。最悪の場合、人の気力を極限まで奪い取ってしまい自殺に追い込んでしまうこともあるので駄目だ。例として、生類哀れみの令がある。犬や猫を殺したら、人間も死罪なんて言うのは強権の最たるものだ。あるいは、旧ソ連の体制、民主主義体制に敗北したことからも、全体の力を削いでしまって駄目である。強権は、人を駄目にしてしまうので悪なのだ。

5.おいしい料理が作りたいと思うだけで何もしない
→経験が詰み上がらないから駄目(悪)
おいしい料理を作りたいと思っても、それだけでは、おいしい料理は作れない。おいしいか他人に聞いてみたり、何度も味見をし、改良しなければ、おいしくならない。レシピは最初に読むにはいいが、自分で味の調整が出来なければ、センスが磨かれずにヘタクソなままだ。正義も同じ、善意だけでは駄目だ。正義の難しさに対する自覚がないと、善意だけで自分を正当化してしまう。それが何を産むかというと、1〜4の欠点を全部行ってしまう恐れがある。つまり...他人の話を聞かないので、相手の状況を無視して人を苦しめ、独り善がりな正義で人を困らせ、杓子定規な正義(非現実的な行為)で人を型にはめようとする。それらあさっての方向の行為を強権を以て行うので大迷惑(大悪人)となる。要するに最低である。超マズい現実が産まれる。そういう意味で料理と正義は似ている。困難であるという自覚があってこそ、人は慎重になる。それが1〜4の欠点を避ける動機となる。

正義とはセンス、それがない者は悪である。人によって食べ物の好みが違う様に正義も違う。しかし、誰もがおいしいと思う料理がある様に正義も誰もが喜ぶものがある。(悪人には不評だろうが...)であればこそ、それを探求する事が正義である。そして、それを放棄した者が悪であると言える。

これらは歴史に対する私の解釈である。