SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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正義でも悪でもない現実主義とは何か=偽善である

私は子供の頃いじめられてきた。だから、悪がどのように産まれるのか熟知しているつもりだ。悪は偽善が産む。偽善とは観念的な正義の事である。観念と現実の差が悪となると言っても良い。観念と現実を分離する為には、人の意見を聞くだけでは駄目で、常識がバックグラウンドにないといけない。しかも客観的な。

この客観性を定めるものは、科学的な尺度であったり、歴史の経験から導きだされた人間に対する理解などである。最も避けなければいけないのは個人の主観である。特に綺麗な言葉。さて、正義も悪も存在する。なぜなら、それはバランスとアンバランスの違いだから。

バランスを保つ為には基準が必要である。その基準を何らかの形で定め、結果と検証する事を繰り返す事で、徐々に正しさが見えてくる。この逆に何が正しいか分からないと言って何も考えない人間は、何を求めるかというと、奇麗事である。奇麗事とは悪の温床である。つまり、考えない人間ほど、悪(偽善)の支持者であり、怖いものなのだ。

考えない分だけ外見にだまされる傾向があり、それが偽善を支持する結果となり、悪の温床になる。だから、何が正しいのか分からないというよりも、俺はこれが正しいと考える何らかの基準を持っている人間の方が、よっぽど私は正しいと思えるのである。

基準を持たぬものには何を話してもうなぎの様に応えるばかりで、都合のいい方につくだけだ。勇気の必要な正義を行えない。正義とは何が正義なのか自分の頭の中にある人間でないと出来ない。都合のいいポジションを確保する為に態度を明確にしない腰抜けには不可能な事なのだ。他人に自分の正義を押し付けるのはよくないが、しかし、自分の正義は何かと聞かれたら、きちんと応えられる姿勢を持つべきである。それがないものは、単なる日和見主義でしかない。

日和見主義が悪に権力を与え、弱者を生け贄にして自分達は正義面をする。ある意味、一番卑怯な連中なのだ。彼らの正義は力。善が力を持てば善の味方。悪が力を持てば悪の味方。しかし、善は人に勇気を求めるので、勇気のない彼らは悪に寄り添う。

善は人に勇気を求めるが、悪は人に臆病を求める。悪を否定するのであれば、何を以て自分が正しいと成すか、きちんと考えておく事だ。