SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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出来るか出来ないかよりも、自分はどうあるべきかが大事

出来るか、出来ないかという事にこだわり過ぎると、出来ないと判断したら、何もしないという発想になりやすい。出来ないことをやるのは無駄だということなのだが、それは、自分を自分以上に高めるという意思に欠ける発想であると同時に、他者の評価を気にしすぎた発想である。

というのは、出来ないと思ってもやる事が結果として人を高めることに繋がるからである。よく考えてみてほしい。赤ん坊をイメージしよう。赤ん坊は、何も出来ない。この赤ん坊が、自分に出来ないことはやらないと考えたら、どうなるだろうか?何も出来ない赤ん坊は、ハイハイもしないし、言葉を話そうともしないだろう。自分は、何もデキいないのだから。

でも、赤ん坊は、ハイハイをするし、言葉を片言ながら喋ろうとする。その結果、歩けるようになるし、言葉も喋れるようになる。人間は、自分に出来ないことでも、取り敢えずやることによって成長していくものなのだ。だが、成長していく過程で、他人の評価にさらされ続け、出来ないことをやることに臆病になってくる。

子供の頃に獲得した方法論を忘れ、自分の出来る範囲で立ち回ろうと小賢しくなる。だが、結局そういう発想では、行動範囲が限定されて成長が鈍化し、結果として、何も獲得できない状態に陥るのが関の山である。能力のインフレが起きず、デフレ(縮小)が生じてしまうのだ。能力のデフレーションから脱却するためには、この出来ないことをやらないという小賢しさを捨てなければいけない。

そこで、どうして、出来ないことをやるのが嫌なのか考えてみると、恐らく、時間と労力を費やしても、何の見返りもなく、ただ、非難されるだけというのが、嫌だということなのだ。実際は、そういう嫌なことをやる時の人間というのは、集中力と持続力に欠けているので、失敗するのは当たり前。一生懸命頑張っても、他人の期待を裏切るという不安が雑念となって、集中力や持続力を阻害している。そう言う意味で、人のためにやろうとするからダメなんだと思う。自分のためだと思って頑張ることが大事。人のためだと人の期待が重要だけど、自分のためならば、期待するのではなく、失敗しても非難はしない。その結果、集中力が持続でき、能力を最大化しやすくなる。大抵嫌だと思ってやる時というのは、嫌だと思っている時間が大半で、その間、集中していないものである。そして、持続力にも欠ける。よって成果は出ない。大事なのは、出来るか出来ないかという他人の期待よりも、自分はどうあるべきかということを考えて集中力を持って継続的に行動する事が大切なのである。そのためには、成果に必要以上にこだわってはいけない。それは雑念以外の何物でもないから。成果という他人の評価ではなく、自分はどうあるべきかという自分の意志の方が大事なのだ。それは、赤ん坊がハイハイをする時と同じだ。赤ん坊は、他人を見て、自分も自由に動きたいと思うから、ハイハイをする。その結果、歩く能力を獲得する。逆説的だが赤ん坊のほうが、今の日本人よりもずっと大人だ。何が自分を成長させるのか弁えている。

社会を成長させるのも同じ、出来ないと思って、何もしないでいるのはダメ。それは、自分で自分の可能性を狭めてしまう。そういう考え方は、他人の評価を気にしすぎている。そういう考え方は、雑念以外の何物でもない。大事なのは、社会がどうあるべきかということが一番大切なことであって、それに向かって、赤ん坊がハイハイをするように、無邪気に頑張ることこそ、結果として、不可能だったものが、可能になるのだ。なぜなら、そこには集中力と持続力があるからである。憧れを持ち続けていることが、結果としてモチベーションとなり、最終的な結果をもたらすのである。それは自分の望むことでなくてはいけない。そのためには、自分が何を望んでいるか明確でないといけないのだ。それが曖昧だと、そういう事ができない。大事なのは、自分がどうありたいかということが明確であることなのだ。今の日本人は、それが明確ではない。

私が自由について明確な意志を持っているのは、私が独裁的な家庭に生まれ自由がなかったからである。だから、明確に自由を望む意志がある。だからデモにも行くし、なんとしても、自由が無くならないようにしようと、考える。そこには、出来るか出来ないかという発想などない。自由がなくなったらどうなるかということが明確にイメージできて、そうなったら、マズイという意志だけがある。それしかないのだ。つまり、選択肢が、出来るか、出来ないかの二択があるのは、それを失ったらどうなるかという事がわかってない証拠である。なぜなら、自由が失われたら、その二択自体を選ぶことが出来ないのだから。