SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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今回の選挙について(差別政治の終焉)

私が自分に有利な事をしようとするとき緊張するのは、子供の頃、そういう事をしようとすると、なぜか必ず問題になったからだ。自分にとって有利な事をするという事は、他人にとって不利な事をする事でもある。だが、大抵、私は正当なプロセスを経て、そういう事をしているので、何一つ文句を言われる筋合いはないのである。でもなぜか祖母が問題にしてしまう。
 
祖母の隷属意識が、私のその公平な姿勢を許さないのだ。つまり、他人にとって不利な事をすることで、他人が怒る。それを祖母(の隷属意識)は恐れて私を止める。争いを起こすものとして悪者にするのだ。私は、正当なプロセスでやっているので、当然抗議するが、それが尊重される事はない。とにかく止められたり、問題にされたりして前に進めない。理由を問いただしても、理由はなし。
 
それが祖母のやり方だった。要するに私にとって正当な権利であっても、祖母にとっては人が怒る事が怖いのである。これをスポーツに直すと祖母の異常さがよくわかる。サッカーでゴールを入れた選手に対し、入れられたチームが一点取られるのは嫌だと言ったから、お前のゴールは無効だと審判が言って、私のゴールは無効になる。
 
これを悪平等と言わずしてなんと言おう。
 
そういう生い立ちの私は、公平のために実力のあるものを尊重することは何ら反対する事はない、むしろ賛成する。しかし、同時に私は差別を嫌う。同じ仕事をしていても違う給料だとか、ろくに働いてもいないのに株主というだけで多額の配当金をもらうとか、そういう事は公平とは言わない。しかして、市場原理主義と言われる経済学者は、それが公平な社会なのだと言う。公平というのは妥当な対価を支払ったものに、それ相応の対価を与える事であって等価交換でなければいけない。特権階級を作る事が公平だというのならば、それは差別を助長し、結果として社会を疲弊させるだけであろう。そうした事にノーと言った今回の選挙は正しい選挙だったと思う。
 
私から見ると、人が苦しんでいるのに、それが正しいと言っている経済学者は、私を苦しめた祖母によく似ている。自分の理屈、都合の為に、他人を犠牲にする所がそっくりなのだ。しかも、他者に対する感受性の鈍さも共通している。それは、自分の考え方に凝り固まっているから、そうなるのだ。頭の中の世界観だけでものを見て、外界を見ない所は、愚か以外の何者でもない。そして、自分の考える正義、経済学者の場合は、経済学の理論なのだが、それに従う事が正義と考えており、その為に民衆が苦しんでいても、何ら意に介さない所は、フランス革命直前のフランス貴族を思わせるほど傲慢だ。
 
いかなる歴史も、民衆の不満を継続しながら改革を行うなど不可能だと言っている。もっと言えば、改革でもなく、単に差別を実践しているだけならばなおさらである。私は今回の民主党政権の誕生は、その歴史の正しさを証明したと思っている。
 
差別政治を行う自民党政権は終わった。真に公平な政治の時代が民主党政権で行われる事を私は期待してやまない。私は公平は好きだが、差別は大嫌いなのだ。公平と差別が区別できない経済学者は、社会の害悪であり、公平な社会の為に排除するべき存在だと私は考える。真に賢明な経済学者とは、公平と差別の区別が出来、人が幸せになる事が経済にとって正しいと考えている人であろう。
 
大事な事は、人が幸せになる事である。その為に経済や政治があるという原点に立ち返る事である。その本質が分からないものに経済や政治を語る資格はない。今回の選挙はそのことを示したと言えるのではないだろうか?少なくとも私はそう思うのだ。