SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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思考停止という信頼

人が物事を信頼する時、「何らかの信じるに値する根拠があるべきである」というのが私の持論であったが、実際には違う。それは小さなものの見方に過ぎなかった。信頼にも色々な形があるが、私がそういう根拠に基づく、合理性だけに意識が集中してしまったのは、多分、子供の頃に理由もなく発言権を奪われた事が起因している。つまり、理由がない差別に強い反感を抱いていたからこそ、その反感が視野を狭めてしまったのだ。

何事にも理由があってしかるべきで、そうでないものは一切否定する。それは、理由のない世界への反感から来る視野の狭いものの見方だった。(子供じみた見方だ)

人が信頼するものに権威がある。要するに多数決に対する信頼である。3/30の行列と渋滞の共通性で書いた様に、人が信じるものに、信じるものではなく、集団の存在そのものに対する信頼がある。こういう信頼は根拠がない。これは、複数の人々が渋滞の様に、僅かずつ思考をしないでいくうちに、それが累積して、思考停止を招き、最終的には根拠なき信頼となってしまうのである。

つまり、思考停止を誘発するものがあり、それが連鎖的に権威を産み出し影響力を産み出していく理性なき信頼が存在する。一例として小泉フィーバーがある。改革という一言はあっても、私が聞けば、何の意味もない改革とは名ばかりの主張に過ぎなかった。過去においてはヒトラーの演説もそうだった。

私が小泉氏が何を改革したのか?と聞いたとき、多くの人は「郵政民営化」と応えるだろう。しかし、もう一つ質問する。「それで私達の生活は変わりましたか?」と聞いてみると、多分、誰もちゃんとした答えが言えないのではないだろうか。なぜなら、何も変わっていないからだ。人々の生活が変わらないものを改革とは呼ばない。本当の改革とは中曽根政権の国鉄民営化とか電電公社民営化、橋本政権の金融ビッグバンのことを言うのである。

これが思考停止が産む権威の実態である。具体的には何もないのだ。大騒ぎしたのに、その実、何も産んでいないのが思考停止が産む信頼の正体である。あれだけ大騒ぎしたのだから、何らかの根拠があったのだと思うだろう。でも、実際には何もないのだ。皆が僅かずつ思考を停滞させ、それが累積して完全に思考停止した結果というものは極めて空虚なものなのだ。

何らかの中身を見いだそうとして意見を言いたい気持ちも分かるが、何もない。なぜなら、皆が中身を吟味しようとせず、皆が集まっているというその事実だけを重視したのだから、それは当たり前。皆が何も考えなければ、何も建設的な結果は生まない。それは歴史の中で何回も起きている。何も特別な事ではない。ヒトラーを支持したドイツ人も、彼が何を言っているのかよくわからなかったが、とにかくその勢いに支配されてしまって大きな過ちを犯した。

だからこそ、民衆は「よらば大樹の影」ではなく、自ら考えて行いを正す必要がある。そうすることが社会を本当の意味で「改革」していくのだ。