SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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反論:「メニューコスト(?)と政策の難しさ」

メニューコスト(?)と政策の難しさ
http://wiredvision.jp/blog/iida/200801/200801232343.html
  

私たちの多くはほとんどの問題について「しっかり考えて」判断してなんかいません。たいていは「なんとなく」、時には「みんながそういっているから」という理由で判断しているのではないでしょう。その軽忽さを批判するのはノノそれこそ軽忽なことです。
  

      • skymouse---

社会全体を考慮しない姿勢を合理的として正当化するということは、社会性を放棄したことになる。それは充分、批判の対象になる。もし、そのような事を批判することを軽忽というのであれば、社会性そのものを軽忽と言っているに等しい。
  
軽忽な集団である社会の現実から逃避するなというのが飯田泰之氏の意見だろうが、悪いものは悪いとしなければいけない。それが例え、全体に対してであっても、そうしなければ、いかなる改革もできないからだ。
  
日本が改革できないのは集団に対して個人がモノ申すという姿勢が欠けている点にある。昔と違って言う場所は無限にあるのだ。それを活用できていないことこそ問題なのだ。
  
変えようとして、たった一人でも声を上げることが大事であり、それを尊重せず軽忽と言うのであれば、改革をせず何も言わず、何もしないということになる。私は、そのような恥知らずにはなりたくない。(皆が悪を善だと言い始めたら、自分もそうするなどという論理は偽善ではないか。否定しなければいけない)変化とは何か、それは体制というメジャーに対してマイナーな立場から主張することから始まるのである。それを軽忽というならば、変化を起こそうとする姿勢に対して軽忽と言っているに等しいのである。
  

たいしたリターンが期待できないことについて一生懸命考えないというのはある意味合理的なのです。本連載の第12回にも書いたように一見愚かな行動が合理的だという例は少なくないのです。
  

      • skymouse---

「たいしたリターンが期待できない」とは局所的な正当性と言える。つまり、単独での解釈なのである。全体の総意を結集するという民主主義を否定した発想だ。結集プロセスを省いた単独での解釈であり、閉じた発想とも言える。つまり、飯田氏の発想はプロセスなき結果と言うべきものなのである。つまり存在しないのだ。彼の主張を聞いていると全て存在しなくなってしまう。変化も存在しない。なぜなら、それをすること自体が、彼から見れば軽忽な事なのだから。