SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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行列と渋滞の共通性

行列(権威)と渋滞の共通性は、規模がその影響力に比例するという点である。

渋滞は遅延が累積する事によって本来は等速で走れば流れるものが止まってしまう。行列も同様で他人が並んでいるから自分も並ぼうという発想から並んでしまう人がいる。流行も行列も他者の累積が影響力を高めているという点では同じだ。

しかし、行列の先にあるものがいいか悪いかは分からない。その事については何も吟味されていない。ただ、そこに並ぶ人の規模が大きいのでなんとなく凄いのだと思ってしまう。いわば目的なき正当性である。(この段階で既に意味不明なのだが...)

つまり、行列と、その先にあるものには何ら関係がないのである。ただ、累積が価値を持っているのではないかという憶測があるのみである。憶測が憶測を呼び、累積する事によって、そこに権威が産まれ、それに従順な人が並んでしまうのである。(そういう意味では噂や風評と大して変わらない)

憶測を持ちやすい人が連携してしまうと、それが蓄積して大きな意味を持っているのではないかと勘違いしてしまうのである。渋滞で止まってしまう車と同じである。そういう風に出来た権威は中身がなくても影響力は甚大なのである。

憶測が憶測を産み、妙な希望が産まれるが、実際には何もないのである。何もないものをありがたがり、右へ左へとずれる人々を見ると、大人として情けないと思うと同時に、こういう流れをどうにか出来ないかと思うが何も有効な手段を見いだせない自分にも情けないと思う次第である。

実体のない権威の生成過程を説明しても、行列に並んでしまう人は並んでしまう。自分で物事をきちんと選ぶ為には、そういう選び方は噂を信じる様なもので愚かだという事を理解している人間が過半数になれば、この国は確実に良くなる。また、そういう力を逆用して権力を獲得し、自分の意志で物事をドライブしてやろうという人間がいても、私はそういう人間の中に優秀な人間を見た事がないので、あまり期待しない。むしろ、そういう邪な方法で権力を握ろうとする人間の中にはろくな奴はいないので、切り捨てるのが吉という程度のものと割り切っている。

そういうお前は切って捨ててなんとするという事だが、情報は基本的に出所を確かめる。行列なら行列の先を見て何がどうなっているのか確かめるのが筋というものだ。当たり前すぎて人を馬鹿にしているようだが、結構、人間というのは集団に弱いのだ。私もまた、根拠がないのに偉そうな言葉を聞くとき、どこに何の根拠があるのかよく分からないが、とにかく周りの多くの人がとても信じている事に対しては無視できない。だが、そういうものを確認してみて、なぜこれが、それほど信じるに値するものなのかと疑問に思う事が多い。そういう意味で「信じぬものは救われる」と思う事がある。理性は何の意味もない事だと判定を下しているが、疑問が自分の理知を越えた存在を想定させるのだ。しかし、多くの場合において理知が正しい。

意味がないものが意味がある様に見えるのも、それは渋滞と大して変わらぬ。人の過ちが累積すると、最終的に思考停止を招くのだ。根拠のないものを信じるのも、渋滞と同じ。発想が噂を信じるレベルで止まってしまっておるのだ。以外と人は寄せ集まると愚かになる。最近では「あるある大辞典」がある。どう考えてもおかしいと思えるのが出だした頃から眉唾半分で見る様になったが、それでも、そんな事をテレビがする筈がないだろうという思い込みが思考停止を招いていた。(それに誤った情報の流布で利益を得ていたら詐欺であり犯罪である)テレビ局という行列発生器を安易に信じた結果である。規模が大きいのだから正しいと錯覚しているのは困り者。テレビ局もまた大した事はないのだ。

そういう意味でハッキリ言えるのは「正しさと規模は関係ない」という事。沢山の人が支持しても、そのたくさんの人に理性がなければ、全く意味がない(噂と同じ)。逆にamazonkakaku.comなどに書かれている製品レビューなどはとても参考になる。amazonとテレビの違いは、テレビが基本的には己が利益の為に頑張る組織に対して、amazonでは玉石混合であるけれども基本的にユーザーがユーザーの為に書いたものであるという点が大きい。

情報の運用目的が違うのだから、そこから産まれる信頼度も違う。そして、正しさは規模という量ではなく質で見るべきもの。沢山の人が信じているからといって簡単に信じてはならない。幸い、ウィキペディアの様に信頼度の高い情報を集めてくれるサイトがあるので、そういうサイトを参考にするのが良い。

人は時折合理から外れた行為をおかす。あるある大辞典もドル箱番組であったのだから、金をかけようと思えば出来た筈だし、偽情報を流して番組を駄目にするなど彼らの利益にかなわないと思っていた。だからこそ、完全なウソを出す様な愚行は合理的に考えてあり得ないと思っていた。しかし、それでも、金を儲けている番組でも金をかけないで安いコストのまま利益だけを追求するというテレビ局の経営陣の精神年齢がハッキリ分かったので、この考え方は、相手を高く見すぎていたと思った。そこまで低いとは思わなかった。まさか営利目的すらも達成できない発想であるとは思わなかったのだ。

あるある以後は、以前からテレビ局を低く見ていたが、さらに低く見る事にした。営利目的すらも度外視する可能性がある組織だと、もはや何の為にやっているのかよく分からないが、とにかくそういう腐敗が進行している組織だと思った。ある意味、末期症状なのかもしれないと思う。番組も良いものと悪いものがあるのは分かるが、以前から持っていた信頼度は下げた。公共性を捨て去っても営利的合理性を持っていると思っていた。しかし、あるある事件でそれも崩れた。

今の私が信頼する情報メディアは、ウィキペディアである。テレビ局は合理的な組織ではない。営利すらも度外視するという発想であるため、合理解釈では意味不明、腐敗していると考えれば妥当。腐ったものの中で、腐っていなさそうなものを半信半疑で信じる程度が今のテレビの正しい見方である。そういう意味では、テレビ局とは冷蔵庫の中の賞味期限切れの食品みたいなものなのかもしれない。

腐っているかいないか匂いを嗅いでいたりする事が大切。今まで臭いと思っても、賞味期限のラベルを信じる様なところがあったが、そのラベルですらも場合によっては偽装する恐れがある。それほど、腐敗が進行していると考えるのが丁度いい。そういう意味では、テレビの見方、メディアの接し方が正常になったとも言える。これが正しい見方なのだと書いていて妙に納得した。