SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「だって」ではなく「なぜなら」と言え

出来ないと考えるのは比較的に簡単だし、全く建設的ではない。安易な答えに固執するのは、その安易さに安住するだけの余裕があるからである。本当に切迫していたら、出来ないと言って躊躇している余裕はない筈である。それをしないのは、ある意味、現状に甘えているからそうなのであって、実は、そういう甘えた人間ほど他人を「甘い」と言っているのである。
 
難しいから大変だと文句を言うのは実はとても簡単な事で、私は子供の頃、ニュースを見ながら、ニュースの中の政治家を批判した時、義父は「じゃぁそれをお前ならどうするんでぃ」と聞かれた時、「・・・・」何も言えなかった事を思い出す。義父の言いたい事は、文句を言うのは容易い、だが、その代案がなければ、文句を言う資格はないというものだった。
 
それ以来、私はとにかく相手を批判するときには、まず代案を考える事が習慣になった。そうでないと示しがつかないし、みっともないと思ったからだ。それと義父はこうも言っていた。「だって」とは女の言葉だ。男ならば「なぜなら」と言え、つまり、「だって」と無責任に言い訳を言うのではなく、「なぜなら」と言って己の言っている事に根拠や理由を持て、それが男だ。と教えられた。つまり、難しいから出来ないと無責任に放り投げるのは、「男じゃない」みっともない事な訳だ。だから、難しいと思いつつも、出来ないという言葉を使うのには一抹の恥ずかしさが私にはある。つまり、そういう事を言うのは男じゃないからだ。
 
だから、そういう私から見ると、「難しいから出来ない」というのがシビアでクールな人間かと言うと、私から見れば「可能性を全く検討しない情けない人間」「男じゃない」という事になる訳だ。だから、偉そうに出来ないと威張る人間に対して「お前は何を偉そうにしているのか」という事になる。つまり、お前は何も考えていない事をなぜ威張るのかよくわからないという事になる。
 
確かに不可能な事はある。だがしかし、それは可能性を真剣に考えた末の事であり、殆ど何も考えていない段階で安易に不可能というのは、情けない奴のする事である。少なくとも私が義父に教わった事とはそういう事だった。
 
考えた末に残った可能性、つまり、出来ない事が無数にあり、残った僅かな可能性を元に自分の代案は組み立てられている。だから、よく考えずに私の意見を批判しているかどうかはすぐわかる。なぜなら、それは私が没にした案だからだ。または、既に懸念し、対応可能とした事だからだ。だから、自分の案を言うときに私は「それしかない」という言葉を言う。それは可能性を検討した結果、それ以外に選択肢が残っていないという意味なのだ。決して、甘い考え方をしているのではなく、実にシビアな分析の末に、それ以外の選択肢が全て没になっているからこそ、そういう言葉が出てくる訳だ。人は私の「それしかない」という言葉を自分を予言者か天才かなにかと勘違いしていると解釈するようだが、実は逆なのである。自分の低能な脳みその限界を言っているのであって、その中で、あらゆる可能性を検討した痕跡とも言える訳だ。
 
そこのところをよく理解し、看破して来る人間を見た時、「ほほう、これが分かるか」と思ったりする。「お前できる奴だな」と思う訳だ。なぜなら、自分が苦労して時間をかけた答えを、聞いただけで、短時間の内に理解するなど、非常に頭がいいと思う訳だ。逆にそれを理解せず、甘いと言ってくる奴を見たときには「なんだ、この程度か」と思うワケ。何をすれば可能かというのは、きちんと読めば、それが最も最適な答えであると完成されているワケだが、その完成度を示す様な言葉は、私の文章には出てこない。ただ、これが最適解という意見だけがあるだけで、その構造や背景を説明し、他の案がなぜなだめなのかという事は書いていないのだ。
 
しかし、それらは全て検討済みで没になっているのである。少なくとも普通の人間が考える事は、大体考え尽くしている。だから、駄目な意見は、相手に文句を言うだけで、何ら代案がなかったり、では、そこが問題だとして、それを解決しようとした場合、どういう選択肢があるのか?と考えてみれば、その選択肢が全て没になっているからこそ、その批判自体が的外れだとすぐ分かる訳だ。
 
「出来ない」という名の鉱山があるといしたら、私は、その山を掘って「出来る」鉱脈を探しているのだ。一生懸命掘らないと出来る鉱脈は見つからない。だから、ろくすっぽ考えない内に偉そうに「出来ない」と言う奴を見るとムカつくのだ。そんなに簡単にできる事が見つかってたまるかっつうの。もう少し頭を使って考えてからそういう言葉は言えと思う訳だ。努力もしないで結果が出ないと言っても、それは努力しないからであって、当たり前の事なのだ。その当たり前の結論を聞いても、しょうがないのだ。私が言いたい事は、もうすこし考える努力しよう。努力した末に出来ないという台詞を言う資格が与えられる。それまでは「できる」とひたすら考えようじゃないかという事だ。