SKY NOTE

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レッドクリフの感想

やはり、三国志は面白い。友情や仁義について描かれていて面白かった。序盤で孔明が進言をするも、それを入れない劉備の愚かさも飲み込みながら仕える姿は、忠義と信義を感じさせた。やはり人は義によって動くのだ。それが合理で動く孔明の様な軍師であっても同じで、やはり、信頼というのは合理では獲得できないものだと感じる。合理を越えた意識があってこそ、人は信頼するのだ。不合理であればすぐに切る様だと、人はついてこない。
 
曹操趙雲関羽の様な劉備の優れた部下を見て、「あの様な優れた者をいずれ手に入れたい」と言う所は、非常に公平な目を持っていると言える。だが、彼は仁義に劣るので、絶対に関羽などを手に入れられない亊を自覚できていない、そこに曹操の強欲さがあると感じる。
 
そんな劉備と対極にある曹操三国志の中で最強だった。彼が最強だったのは、部下の能力に対して公平であったからだと思う。人には仁義を、力には公平さを以て報いる事が大事だ。曹操は力に対しては優れた指導者だったと思う。現実的で優秀な指導者だ。
 
帝王になるべき人材は、仁義と公平さを兼ね備えたものである。仁義が人をまとめ、公平さが力を産み出す。アメリカ型の経営手法は仁義に劣る事で人をまとめられず、未熟な評価制度によって不公平が生じる亊で日本では大失敗だった。いかなる手法も運用次第である。安易な合理主義では人はまとめられない。合理を追及することで利益も出せるし人を助けられるが、その発想では人は絶対ついてこない。
 
だから、孔明劉備を重んじる気持ちはよく分かる。孔明は自分には人を率いる力がない事、運用は出来ても、人の信頼を得て動かす事は難しい事が分かっていた。そういう意味では劉備孔明は相互補完関係にあるが、劉備の悪い所がその後の蜀に致命的なダメージを与える事から、仁義だけでは国を束ねられない事も確か、仁義によって生じる無駄(不合理)を最少に抑えつつも、人を率い、公平さを以て優秀な部下を遇することが必要である。孔明劉備に従ったのもそこが重要だった筈だ。
 
劉備にあって孔明にないのは仁義によって生じる無駄を容認し、人を包み込む温かさだ。それは合理とは対極にある発想であるため、なかなか孔明には真似できるものではない。いや真似である事すら駄目なのだ。そこに真実がないと人はついてこない。「泣いて馬謖を斬る」とはよく言ったもので、孔明の合理と仁義の葛藤がよく現れている言葉である。多分、それが彼の限界だったのだと思う。
 
曹操が主人公である蒼天航路のアニメ第一話で「知に頼って国を治めようとするは国の賊なり」と若き曹操が言うのは、別にインテリを否定している訳ではない。曹操は優れた知謀を持つものを高く評価していたから、それは違う。曹操が言いたかったのは、知だけでは人はまとめられない、故に知にのみ頼った政治は国をまとめられず、結果として国が分裂し争いの元となる。故に国の賊、争いの元になると説いたのだ。
 
なぜ、知は人をまとめられないのか?

1.合理は人を包み込む温かさがない

  • 合理では人の欠点は否定される。物事には優れている亊もあれば欠点もある。それが人なのだ。つまり、状況によっては人を否定する考え方が合理、だから、冷たいと思われて否定される。人のありのままを認める仁義があってこそ人はついてくる。

 
2.知は皆に共有できるものではない

  • 優れた知性が皆に等しく共有される訳ではない。天才という存在を見れば分かる通り、分かりにくいものは否定の対象なのだ。理解できないものに人はついてこない。むしろ、分かりやすい単純なものや、優しさの様な心に響くものに人はついていくものだ。知は高度になれば分かりにくく、合理を追求すれば冷たくなるので、なかなか、それが意思として皆に浸透するのは難しい。劉備の様な触媒を介さないと駄目なのだ。

 
だけど、一番馬鹿の張飛孔明はウマが合っていたと思う。互いが互いの欠点を自覚している分、相互の補完関係が一番巧くまとまるペアなのだ。知恵を孔明が担当し、張飛は単純さで理解しやすい社会的な部分を担当する。これによって、張飛に部下がついていき、その張飛孔明が戦略を与える。お互いの長所を尊敬し合えばこそ、良い補完関係が生まれるのだ。
 
インテリの非力さとは、そういった社会的な部分にある。社会を良くするのは、この知性をいかに世の中に広める亊にあると言っても過言ではない。いかに優れた人の業績を評価し、分かりにくいものを分かりやすくして伝えるか、それが世の中の進歩発展にとって重要な事なのだ。まぁそれが出来ないからこそ、仁義が大切とも言える。人のありのままを認めつつ、励まし、勇気づけ、その反面、合理を追求し優秀なものを高く評価し、給料や地位を与える事で報いる。それが人の世を納める上で大切な事である。それは政治家を選ぶ、全ての有権者に共通して必要な素養である。義だけでも駄目だし、知だけでも駄目だ。両方ないといけない。義に偏り過ぎれば無駄が社会を滅ぼし、知に偏れば分裂して争いになる。この現実をいかに把握するかが世の中を治める上で大切な事だ。そしてその責任は民主主義の制度では人民にある。政治家ではない。政治家は人民の意思によって決定されるのだから、任命権のあるものに全責任が委ねられるのだ。
 
つまり、曹操劉備の立場になって投票箱に一票を入れる意識が、どれだけあるか、それが問われているのだ。三国志を見ると、そういう指導者のあり方が如実に分かって面白い。孫権の様に迷って迷いぬいた挙げ句、決断をするというのが殆どの人に共通する事だろう。良い決断は、どれだけ良い進言に耳を傾けたかによる。孫権は、孔明という優れたアドバイザーがいたからこそ、良い決断が出来た。だから、良い新聞や良いメディアを選ぶ事は大切だ。私的に言えば読売新聞は読むべき新聞ではない。私はあの新聞を「馬鹿売新聞」と呼んでいる。
 
新聞屋にそういったら、「じゃぁその馬鹿が、どうしてNo.1なの」と嫌みを返されたので、私は一言、「ゴキブリは人間様より沢山いる」と言ってやった。それだけ良いメディア(正しいアドバイス)が重要だからこそ、クソメディアは辛辣に否定するのだ。もし、No1の読売新聞が良い新聞だったら、この日本は良い国になっている筈である。だが、そうではないのは、彼らが駄目なアドバイザーだから。実績でそれを証明している。
 
孔明の様な新聞が欲しいところであるが、日本には、そういうメディアが少ない。それがこの国の不幸である。
 
新聞を三国志に例えるならば
 
軍師   :日経新聞(知に偏り仁義に欠ける)
孫権   :東京新聞(バランス感覚がある)
兵(張飛):日刊工業新聞(日本にとって科学技術は兵力に相当する)
 
評価対象外(どーでもいい、なくてもいいもの)
・読売新聞
朝日新聞