SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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幸福になる為に必要な事

不幸を安易に認めるからこそ、マイナス方向に引き込まれる。現実からチャンスを見いだすためには、不幸を安易に認めず、幸福を追及するために努力することだ。その努力をする意欲は、幸福をイメージできてこそであり、不幸をイメージしていると、それが出来ない。
 
「自分は不幸だ」と思う亊からくる幸福への飢餓感は、自分の不幸を安易に肯定する方向に意識を向かわせる。「自分は幸福なんだ」と思っていればこそ、挑戦が出来る。不幸だと思えば、失敗やトラブルばかり連想して気力をすり減らして努力が出来ない。
 
私の祖母が安易に不幸を認めてしまう人で私に何か衝突やトラブルがあるとすぐにマイナス方向に考えてしまい、その度に私を黙らせ、譲歩させていた。明らかに私が正しく意見を通せる状況にあっても、それをわざわざマイナスに解釈して私の発言権を潰してしまう。祖母がしたかった事は家族の皆にいい顔をする事だった。常に怯えながら生きている人だったと思う。忍耐強い人だが根は臆病な人だった。
 
祖母は私のチャンスを常に低く見積もり、潰していった。そんな育てられ方をしたので、私は上手くいきそうになると、とたんに怖くなる条件反射が心に根付いていた。それは、祖母のマイナス思考が生んだ代物だ。本来は、チャンスであり頑張るべき所で恐怖を感じるという皮肉なトラウマが私をチャンスから遠ざけていた。
 
祖母は家の為と言っていたが、彼女のしていた事は、物事を低く見積もる事で、他人のチャンスを奪い、自分が周りにいい顔をする為に言う事を聞く子供を利用していただけだった。そう思えば、最低の人だったが、それもまた彼女の善意がそうさせたのだ。物事を低く見積もり妥協した結果であり、機会の喪失があっても、ある程度の状況を残すという次善策だったのだ。少なくとも彼女にとってはそうだった。
 
でも現実は違った。祖母の周りには不幸が漂っていた。その原因を辿ると祖母の下した数々の決定が原因なのだ。その全てに大きな機会の損失が生じており、それが原因で不幸が量産されていたのだ。つまり、実際は次善策ではなく、改悪だったといっていいだろう。善意でそれをしているのは、チャンスという上を見ず、常に失敗や不幸という下を見て、それ以上下に下がらない様に妥協し続ける発想が結果的にはチャンスを潰していた。実際はチャンスであり、挑戦するべき所をやめてしまうから、機会の損失が最大化されて、不幸になってしまう。
 
死ぬときまで、その亊に気づかず死んでいった祖母の心は重症だったのだと思う。ある意味不幸ではないのに、不幸だと思い込む事で自らを不幸に追い落としてしまう。そんな祖母によって、あまりにも私は尊厳を傷つけられるので、私はその事を祖母にいい去っていった。私が去っていった後は、私を利用できなくなった分、彼女は私という盾を失い、周りの攻撃をもろに受ける様になっていった様だ。それまでは私がクッションの機能を果たし、祖母のダメージを軽減していた。私がいなくなると、主張し権利を擁護しようとする力の均衡が壊れたようで、自らのマイナス思考に自らが引き込まれる結果を招いていた様だ。でも、それは自業自得であり、あまり同情できない。
 
私は利用されていても、祖母が好きだった。嫌いではなかった。悪意のある人ではなかったから。だが、あまりにも物事を低く見積もり、状況を悪化させてしまう人だったので、私はそんな祖母に嫌気がさして、あの家を出た。希望が持てないのだ。あの家にいる限り、自分の幸福は追求できないと思った。
 
今、世の中が金融不況で悲観ムードであるが、歴史を見ると、ハッキリ言って全然、悲観するほど酷くない。人々はご飯を食べられ、飢餓で死ぬ人もいない。社会システムが破綻する様な深刻な問題は起きていないし、以前の金融不況と比べて莫大な不良債権もない。だから、それほど不幸ではない。不幸ではないのに不幸だと思い込み、祖母の様に物事を低く見積もって、必要のない妥協ばかりをしていった末にチャンスを自ら捨ててしまい、本当の不幸を呼び込んでしまう。
 
アリ地獄のような不幸の連想は辞めよう。それは、人にとって百害あって一利なしだ。大事なのは不幸ではない現実を認識し、その価値を認める事だ。恵まれているのに恵まれていないと考えるほど不敬な事はない。その幸福に対する不敬さが不幸を生むのだ。もっと、自分の幸福に敬意を持って欲しい。そういう敬意のある人に成功の女神は微笑む。
 
「与えられているものを持っていないと思う事は幸福に対して失礼だ」そういう礼を失する人間に幸福の女神は微笑まない。幸福の女神が好きなのは、「与えられているものが、たとえ僅かであっても、その価値を敬い尊び、常に前を見る人間」そういう人間をみると、幸福の女神を手を貸したいと思う様だ。そういう意味では幸福の女神は優しい神様だ。
 
そういう人を人は「諦めない人」と呼ぶ。そういう幸福の女神の優しさを信じ続けた人間に幸福が訪れる。それは幸福を信じ、最後まで諦めずに努力するからだ。