SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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認められる正しさ、認められない正しさ

認められる正しさは、理解しやすく、ニーズがある。認められない正しさは、理解しにくく、ニーズがない。
 
例:認められる正しさ
社会一般のヒットしているもの、理解しやすいので敷居が低く、尚且つ、その時代の何らかのニーズを満たしている。
 
例:認められない正しさ
ガロア群論  :非常に難解で当時の科学者ですらも理解不能だった。
ガリレオの地動説:キリスト教に反していた為、それを認める事は異端を意味していた。
 
認められるものには、いくつかの特徴がある。
1.理解できるもの(敷居が低いので、間口が広い)
2.面白いもの(興味を抱かせる内容)
3.内容があるもの(何らかのニーズを満たしている)
 
この三つが揃っていると認められやすい。認められないものは価値がないと言われそうだが、実際には、ガリレオの地動説は、今や科学の基本だし、ガロア群論がなければ、相対性理論、不確定原理、現代量子力学などは生まれていない。つまり、群論がなければ現代の科学文明の基礎が成り立たないってこと。つまり、あまりにも高度で難解なので理解不能だが、それが後世においては偉大な業績として評価される事もある。故に価値がないというのは間違いで、価値があるけれども、その価値を理解できる人がいなかったというのが正確だろう。
 
認められなければ、社会的に何の意味もないが、科学的には偉大であったり、後世の歴史を変えるものだったりする。群論が元になった相対性理論がなければ、現代の原子力科学もない訳で、私達が使っている電力の基礎的理論体系は、ガロアから始まっていたりする。よって、そういったものを価値がないなどとというのは暴論である。科学を知っている人ならば、こういう天才達を知っているから、他人に認められないものを価値がない暴論を吐く連中は、教養がない人間として白い目で見られるのだ。
 
コンピューターを使い、電気を使っている人ならば、それを価値がないと言う資格はないのだ。つまり、この画面を見ている亊自体が、その主張の否定とも言える。社会的側面でしかモノを見れない視野の狭い人間にとっては、認められない事は意味がない事かもしれないが、それは無知蒙昧な世界観に現実を閉じ込めてしまう愚行と言えるだろう。視野を広げる為には、理解できないものを理解しようとする子供の様な柔軟性が必要で、それが人類の進歩を支えてきた。その歴史を知っていれば、認めらないものを安易に否定するのは、進歩を否定する事に繋がりかねない事を理解しておく必要がある。もし、認められないものを意味がないという人ばかりになってしまったら、先進的なものは、全て否定され、人類の進歩はなくなってしまうだろう。
 
社会が否定しても価値のあるものは価値がある。そういうものの価値を認める事が進歩なのだ。進歩の恩恵にあずかっているのならば、そういう亊を言う資格はない。「価値がない」と言うべきではなく、認められないから損とか、現状では社会的価値がないと言う方が適切だろう。もっと丁寧さと敬意をはらった言葉を使ってもらいたいものだ。
 
どのような視野で価値を認めているかで、その人がどういう考え方でモノを見ているか分かる。現実ガチガチの人は、「認められないものは意味がない」と言ってしまうかもしれないし、アカデミックな人は「認められないからといって価値がないという事はない」と考える人もいるだろう。モノの見方なのだが、何を持って価値とするのかは、人によって異なる。異なるからといって、他の人や未来の人々に価値があるものを、価値がないと言って切り捨てるのは暴力にも等しい。
 
革新というものを考えるとき、それは従来の発想を否定する事によって生まれるので、そういう認められている事を否定する事から、未来が生まれている事を考えれば、認められないものは価値がないというのは、古くさい考え方だ。進歩を否定する言葉と言える。私は進歩が大好きな人間なので、古いと言われるのはショックだし、常に新しくありたいと思うあまり、すっ飛んでしまい。他人に理解されない事もしばしばあるのだが、それでも平気なのは、そういう価値体系ではないからである。現実を見ろと言うのは違っていて、私は現実を見ていないのではなく、価値の神髄を見ているだけで、彼らが否定しているものを肯定しているに過ぎない。
 
認められない事のデメリットは、誰よりも理解しているし、知ってはいる。だが、私は、物事を丁寧に見る事に重きを置いているので否定はしない。否定しない事を現実を無視しているというのは違う。現実の価値も認めるし、価値がないと言われているものであっても、将来の種として認めていたりする。それはモノの見方が複数あるだけで、あるものを認めているから、他のものを否定しているとは言わない。ただ、安易に将来の種になりそうなものを否定したりする行為には、進歩を擁護する観点から厳しく批判する訳だが、それは決して、現実を無視しているのではなく、そういう人類の進歩の歴史という長いスパンでの現実を直視しているからであって、現実を無視しているのではない。
 
彼らの狭い現実ばかりが通ってしまっては、人類の進歩が停滞する事は目に見えている。進歩し発展し、よりよい世界を望むのならば、もっと広い視野でモノを見て、その中で価値のあるものを育てていく度量の様なものを持つべきだ。
 
先見性とは、そういう所から生まれる。
 
私は進歩という子供が非力であっても、否定はしない。なぜなら、上手に育てれば、新しい力となって世界を変えるのだから。世界を変えたいと思うのならば、そういう度量を持つべきだ。認められない正しさとは、そういう新しい事に対する度量があるかどうかを指す。度量のない人間ばかりになったら、社会は進歩せず、つまらなくなってしまうだろう。そういう「つまらない事」は否定する。なぜなら私は面白い事が好きだからだ。