SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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幸福貧乏

私の根拠のない不安の正体は、祖母の思い込みだった。彼女は幸福(建設的な意見)を正当化できない人だった。恐らく、祖母に対しても、私に対する祖母のような存在がいて、他人の幸福を食い潰している存在がいたのだろう。そういう人の思い込みで幸福を理由もなく奪い取られた人は、幸福になりそうになると、不安になるようになってしまうのだ。そして、その不安を避けようとして、幸福そのものを否定する。それは自分の幸福だけに留まらなくなることで、他人を不幸に陥れる。
 
私もまた、同じような癖があるが、幸いなことに他人の幸福を否定するような真似はしていなかったことが唯一の救いである。あくまでも自分が不幸であって、他人にまでそれを拡張することはなかったことが災いを他人に撒き散らすことを抑えたと言える。ちなみに、私は他人にチャンスを与えたりもしているので、祖母とは逆だったりする。
 
そういう意味では、私は「幸福貧乏」と言える。自分が幸福であることが信じられず、自ら幸福から去ってしまう。だが、他人は別だと思っているので、他人がチャレンジするときには、「やってみなければ分からない、困難だが頑張れ!」と素直にいう事が出来る。私はそういう自分で良かったと本当に思う。それが私が祖母と決定的に違うところだ。また、理由もなく相手を否定したりもしない。それなりの理由と、代案も用意する。そういう意味では、私は祖母とは全然違うが、祖母に育てられた私は、この「幸福貧乏性」だけは未だに治らないのである。
 
私は理由もあって、代案も用意する分だけ、祖母よりも品格がある。理由によって条件を限定化し、無限に広がらないようにする点(否定しても、その不安要素を限定する)と、代案を用意するフェアプレイを心掛けている事が私が自分の幸福貧乏性を他人に広めず、逆に人に適切なアドバイスをすることで他人には幸福を与えている事につながっているように思える。
 
私自身が幸福になるためには、根拠のない不幸(不安)を認めないことである。自分の失敗を分析していくと、根拠のない不安に支配されて、踏ん張ることが出来なくて失敗、予想はあたっていても、胆力がないことによる失敗が多い。だから、祖母の勝手な思い込みと現実を分離する作業が私が幸福になるためには必要なのだ。私の祖母に対するアンチテーゼ的な行為、理由を用意する点と、代案を心掛けるところは、確実に問題を限定し、解決する方向に他人を導いているので、もっと自分を信じてもいいと思う。
 
不幸を撒き散らす行為の反対を心掛けることで、私は自分の不幸になる発想を自分の中に押し留め、他人には祖母のアンチテーゼを実践することにより幸福を与えている。私はそういう意味では矛盾のある存在である。人が幸福になるためには、幸福になれると信じることが必要である。私は、それが信じられなかったので不幸になってしまった。でも、これから信じるように努力してみたいと思う。幸福になるために。
 
私の幸福貧乏性の特長
普通の人が他人に「1億円あげるよ」と言われたら信じない。なぜなら、幸福の規模が法外に大きいから。でも「100円あげるよ」と言われたらもらうだろう。なぜなら、それは妥当だから。私の場合、その100円が1億円と同じなのだ。妥当な幸福を疑って恐れることで、私は幸福を避けてしまう。私はそういう意味では、理不尽という名の貧乏性に毒されていると言える。そして、その理不尽のルーツが祖母だった。だから、私はよく祖母を嫌う文章を書く、だが、祖母のやり方を否定する行為が結果として人に幸福を与えている点から見ると、私にはマイナスだったが、それに私が反発した行為を取ることで他人にはプラスになっている点で悪いことばかりではなかったと思う。
 
結構、優秀な実業家や映画監督には、不幸な生い立ちの人がいたりする。だから、マイナス×マイナス(反面教師として反発)はプラスなのだ。しかし、他人をプラスにしても、自分のマイナスをプラスに出来ないのは、今後の課題と言えるだろう。