SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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勇気とは何か?

決断について書いていたら勇気について書いてみたくなった。

勇気とは、恐れるべきでないものを恐れない事である。
無謀とは、恐れるべきものを恐れない事である
臆病とは、恐れるべきでないものを恐れることである。
愚かとは、恐れるべきもの恐れず、恐れるべきでないもの恐れる。

勇気と無謀と臆病と愚かの違い
           勇気   無謀   臆病   愚か
恐れるべきもの    恐れる  恐れない 恐れる  恐れない
恐れるべきでないもの 恐れない 恐れない 恐れる  恐れる

「勇気あるもの」は、恐れるべきものと、そうでないものを区別できる。故にそれは無謀にならず、臆病にもならない。

「無謀なもの」は、何も恐れないため、チャンスも手にするが、同じレベルで破滅に向かう。

「臆病なもの」は、恐れるべきでないものを恐れることでチャンスを失う。

「愚かもの」は、恐れるべきものを恐れぬことで破滅を選び、恐れるべきでないものを恐れてチャンスを失う。故に万事に渡って失敗を犯す。

このように勇気とは、分別のことを言うのである。それと比較して、誤った分別に応じて、無謀、臆病、愚かと続く。人は未来のことが分からないので、どれが恐れるべきことか、恐れるべきでないかを想定するのは正直言って難しいので、無謀な行為だと思ったことが、意外とチャンスだったりすることもあるし、また、恐れるべきでないと侮っていたことが、実は最も恐れなくてはいけないことであって、無謀となってしまうこともある。

要するに正しい評価を下せたものが、本当の意味で勇気ある行為が出来たと評価される。そういう意味では公平な人間こそ、勇気のあるものと評価してもいい。

ものさしが一つだけだと、正しい評価を下すには役不足であり、複数のものさしを使って妥当な評価を心掛けないと、愚か者になってしまったりする。タロットカードの愚者のカードは、一見愚かと思える行為が、実は、勇気ある分別のある行為だったりすることもあるという意味である。とくに新しいことをするときには、この傾向が強いのだ。従来の常識に捕われず、新しいものさしを使って行動することは、傍目からは愚者に見えるが、未来の女神からは微笑みをもって迎えられることもあるわけだ。

真の勇気とは、何も恐れないことではない、恐れるべきものはきちんと恐れ、恐れるべきでないものには毅然と対峙する。いじめられていた私は、臆病者だった。私は腕力ではかなわないと思い譲歩ばかりをしていた。腕力でかなわないのは事実だが、そこで臆していては、「あいつは何をしても抵抗しない」という甘えが生じる。私は勝てなくても抵抗することで、そういう「甘え」を打ち砕きさえすれば良かったのだ。そういう意味で、私は恐れるべきでないものを恐れることで、自ら状況を改善するチャンスを潰した。故に当時の私は臆病者であった。

だから、大事なのは、何をもって勝つかは、単純な勝ち負けで決まるものではないのだ。吉田茂の様に「戦争で負けても、外交で勝った歴史もある」という言葉にもあるように、表面的な勝ち負けにこだわることなく、毅然とすることが、本当の意味で勇気ある行為といえる。恐れるべきでないものをきちんと把握し、戦う姿勢があれば、人はチャンスを手に入れられる。だが、表面的な勝ち負けにこだわると、そういう事がよく見えてこない。だから、ものさしは沢山もっていおいた方がいいのだ。

そういうものさしが沢山あると、人は「希望」をもてるのだ。だから、日本的村社会がなぜ悪いのかというと、村社会の掟という一つのものさしにこだわる事で絶望し、いじめられていた時の私の様にチャンスを自ら捨てる様な事をしてしまうわけだ。もし、希望を持ちたいのならば、そういう小さなものさしだけでなく、沢山のものさしを持って現実をきちんと評価した方が良い、その分別が、勇気となり、チャンスをつかんでいくのだ。力関係で明らかに相手に劣っていたとしても、毅然とした態度を取る事で相手を甘えさせない事も勇気の内。勇気はひとつのものさしで計れるものじゃない。沢山のものさしがあってこそ勇気が出るものなのだ。