SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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権威主義は100年遅れている

権威主義者の発想では、上下こそが秩序なのである。故にいかなる理由があろうとも、その上下の枠からはみ出すものは否定する。つまり、合理よりも地位や階級が重要ということだ。

このような考え方の弊害は、合理性に著しく欠けるため、無駄が多く生じるということである。つまり、彼らの秩序は維持するためのコストが膨大であり、社会にとって損失が大きい。

100年ほど前までは、階級によって秩序が保たれてきたが、同時にそれは差別によって物事を疑似的に治めていたに過ぎない。現代社会においては、その疑似性を悪とし、階級社会を否定する試みが行われ、結果として社会システムから階級は取り除かれた。しかし、人々の心の中にはまだ残っている。

合理を追及しようとすると、すぐに生意気だと考えるのは、残念ながら100年前の因習がまだ人々の心の中に残っているからである。階級システムを私が否定するのは、そのシステムが極めて非効率であり、多くの精神的リソースを食い潰し、恐らく日本の自殺者数を押し上げる要因になっていると考えられるからである。

そういう意味で私の階級主義者、権威主義者に対する目線は、間接的な殺人行為を行う可能性のある危険人物なのである。発想自体に無駄が多く、その無駄を秩序だと考えている点に非常に危険性を感じる。無駄がいかに社会を蝕み、破壊するか、歴史を理解していれば分かろうものだが、彼らは、分からないのである。

階級主義者は、差別的な造語を生みだし、常に自らよりも下の階級を設定しなければ気が済まないようで、それが恥ずかしい行為であることが分かっていない。なぜなら、自分を成り立たせるのならば、自分に自信を持てばいいだけで、人を蔑んで自らを上に立たせようという発想自体がみすぼらしいのだ。むしろ、そういう発想自体が蔑むのに値する。

権威主義では常に下を必要とする。下を食って生きている。でも、今の世の中に、そのような社会制度はない。基本的には平等なのだ。差別階級も、もはや存在しない。あるのは貧富の差だが、それは差別というよりも経済力の差である。経済的に優位に立てば自動的に解消されるものであり、固定された階級ではない。

しかし、頭の中が100年前と大して変わっていない「未開人」の彼らは、未だに階級を作りたがっているわけである。率直に言って馬鹿である。私は公平な差別はあっていいと思っている。どういう差別かというと、人を苦しめる人間を罰するような差別である。それは犯罪者を牢屋にいれて罰するのと同じである。

問題は不公平な差別である。人に迷惑をかけてもいないのに差別する姿勢である。例えば、人は自分と価値観が違う人間を差別したがる。でも、単に違うだけで他人に迷惑をかけていなければ、差別する理由にはならない。もし、違いだけで差別をしていいとしてしまったら、世の中に自由がなくなってしまう。同じ価値観のものだけの天国になるだろうが、他の価値観の人間には地獄のような社会になる。それではダメなのだ。

むしろ、人を違いだけで差別する人間を、自由の敵として差別するべきなのである。それは公平な差別であり、正しい差別なのだ。ちゃんとした理由もなく人を差別をしてはいけない。公平な差別には、かならず正当な理由がある。不当な差別には正当な理由はない。上下だけを理由にすることがまずいのは、上下だけでは正当な理由にはならないからである。無条件に上のものが下のものを差別していい時代は100年前に終わっている。そのような権利を認めていた社会は終わったのだ。よって不当な差別を行うものこそ差別するべきなのである。

現在も会社に階級はあるが、それは組織を機能させるためにあるものであって、無条件に権利が認められているわけではない。あくまでも組織の運用のためにある。だから、上司はきちんと部下に理由を言って命令しなければいけない。無条件で命令できたのは100年前の慣習であって、今の時代には合わない。日本の総理大臣だって、民衆の意見を聞かなければ、即刻、クビになってしまうのだ。会社が不祥事を起こしたら、その会社の社長がクビになる。それは特権が存在しない社会であることの証である。

会社のトップだろうが何だろうが、とにかく、きちんとした理由もなく行動できた時代は終わっているのである。不祥事を起こした会社の社長は内弁慶で会社の中で横暴を奮えても、結果としてそれが不祥事となり、社会の怒りを買ってクビ(酷いときには会社ごとクビ)になる。だから、きちんとした理由が必要なのだ。ちゃんとした理由で組織が運用されれば、不祥事が起こらなくなる。理由を放棄し、権威だけで行動すれば、いずれ会社自体がモラルハザードを起こし社会の怒りを買う結果となる。

だから、きちんとした理由が必要なのだ。無条件に権利が与えられるほど、今の世の中は甘くないのだ。そんな権利は今の世の中には存在しない。あるとすれば、人々の心の中にある。私は今の世の中にはそんなものは、いらないから捨ててしまえと言いたい。百害あって一利無しの発想だから捨てるべきだと言いたいのだ。

結局、権威で成立する秩序がなぜ否定されたのかというと、それが擬似的な秩序に過ぎなかったからである。多くの人々の尊厳を生け贄にして作り上げられた秩序に人々が耐えきれず、新しい価値観を必要としたのである。本当の秩序とは、沢山の価値観が共存できて、調和するものである。そのために、民主主義というシステムが今の社会では採用されている。時として衆愚と化してしまうものだが、人々がそれを選んだのは、一つの価値観(権威)に統一する事がいかに窮屈で苦しいものかということを身にしみて理解したからである。

権威主義とは上位者の狭い価値観を一方的に押し付ける窮屈な発想であり、それによるあらゆるリソースの食いつぶしが目に余るので否定されたのだ。要するに権威主義とは、他人の価値を否定して、自分の価値を肯定する差別によって作られた擬似的な秩序。常に差別を必要とし、それ故に犠牲となる者が多い。そういう生け贄を必要とする最低の価値観なのだ。