SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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我慢がダメな理由

私は、我慢という言葉に強い嫌悪感を感じる。なぜなら、我慢というのは苦しむ者の現実を無視する事が多いからだ。
 
例:体が苦しいのを我慢して頑張った
体が痛い苦しいというのは、体が助けを求めている事であり、我慢はそれを無視する。つまり、体が助けを求めているのにそれを無視するのが我慢なのだ。これは体にとって非情である。病気だったら悪化して酷い目にあうし、時には死ぬ事もある。
 
例:辛い事もあるかもしれないけど我慢、我慢
辛い事があったら励まし勇気づける事が大切だ。また、辛い事の原因を取り除く努力も必要だ。しかし、単に我慢をするだけだと、何の問題解決も行なわれない。私は、この様な事をされて、子供の頃、自尊心がボロボロになる位苦しんだので分かるのだが、我慢しろという人間はとても楽だが、我慢ばかりさせられる人間にとっては、とても辛い事なのである。その辛さに共感し、助けるどころか、耐えろというのは、あまりにも無慈悲ではないか。つまり、明確な目的もなく安易に我慢というのは他人の辛さ、苦しみなどを無視する行為なのだ。祖母は明治生まれの人で何でも我慢、我慢ばかりで、私を全然助けてくれなかった。私には、今でもその怨念が残っている。
 
心が辛いとき、励まし、元気づけ、助ける事が家族というものだと思う。それが全く出来ていなかったのが、私のいた家だった。なんでもかんでも我慢、我慢。子供の頃はそれが正しいと思っていて、従順に従っていたが、大人になって世間のまともな家族を見る度に、自分の家はおかしいと思う様になった。つまり、我慢というのは、他人の痛み苦しみを無視する時に使われる言葉なのだ。
 
他人の苦しみに一切共感せず、助けない思想、それが我慢の実体。少なくとも私が家族にされた我慢はそれだった。

悪平等の実体
http://d.hatena.ne.jp/skymouse/20090105/1231139314
 
悪平等の実体という中でも説明したが、「人の苦しみ」という現実を無視する時に使われる言葉が「我慢」という言葉なのだ。そして、この我慢が悪平等になりやすいのは、単に我慢だけを要求する事が人の辛い現実を無視し放置する事に繋がるからである。祖母の若い頃の明治時代では酷い差別があって何も解決できなかったかもしれないが、今の平成の世では、そのような事はなく、問題があったら、それを我慢せずに解決する事が出来るのだ。
 
だから、我慢をするよりも、すぐ医者に行ったり、我慢させる前に共感し励まし、勇気づける。そして、出来れば助ける。それが「まとも」というのだ。何でもかんでも我慢はダメ。人が傷つきすぎてダメになってしまう。つまり、我慢がダメなのは、人をダメにしてしまうからである。我慢して大丈夫なのは、他人の辛さや苦しみを理解し、助ける事が出来てこそだ。それも出来ない奴に我慢という言葉を言う資格はない。あまつさえ、自分だけ楽な場所にいて、我慢しろというのは最低だ。相手の立場を思いやれない人間が言う我慢は、拷問に近い。そして、その拷問によって人がダメになる。だからダメなのだ。
 
私にとっての我慢とは...
「人の痛みや苦しみという現実を無視して、何ら助けもせず、何ら問題解決もしない人間に都合のいい方便」である。
 
ちなみに我慢というのは仏教用語で、慢心の一種である。その理由は、「己一人に苦しみがあると慢心する者」まさにこの言葉の通り、我慢は他人の苦しみを理解できていない。だからダメなのだ。
 
辛い事、苦しい事があったら、我慢ばかりではなく、解決する事を考える。それが本当の優しさを持った人の発想。そして、そういう優しい心をもので表現する事を発明という。私は、この発明という行為と、そのバックグラウンドにある思想が大好きだ。そしてその対極にある我慢という言葉が大嫌いだ。