SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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断行(決断)できなかった私とリーダーシップ

自分の指導力のなさを考えると、断行できない点にあると言える。断行するのは、責任が伴うのだが、私はその責任を過剰に恐れる傾向がある。

私は自分の意思を否定されながら生きてきた。強い意志を表明すると、周りでよってたかって責められる。私は他人に迷惑をかけない範囲で主張していても、彼らにとっては、強い意志の存在そのものが恐怖に映る様で、よく正当な理由もなく否定されたものだった。

私が正当性を主張すると、彼らは権力(多数決)で否定した。だから、私は自らの行いを断行するのは嫌だった。断行すると、無条件で否定される。私を否定する人達に共通するのは、理由がない事だった。なぜ理由がないかというと、私が滅多に怒らないから、言いたい事が言いたい放題言えるからである。

人というのは本来、皆が違う。故に皆が皆、自分のしたい様にしたい訳である。だから、それが許されるのであれば、皆がバラバラになる。理由がなくても自分の感性に従ってやりたい様にやりたいのである。まぁ一人でやってきた野良猫みたいな私にとっては、その気持ちはよく分かるが、皆を一つにまとめる為には、皆が何らかの形で妥協しなければいけなくなる。

そして、妥協する為の理由が必要になる。だが、その理由が正当であっても、私の様に怒らない人間を相手にすると、人は無限に横柄になり、自分勝手な事を言いだす。要するに私が譲歩するから、無限に横柄になると言えるのだが、私が断行したとしても、倍の反発が待っていると感じるとやりにくくてしょうがないのである。(私は譲歩し過ぎる事で、あらゆる問題を自ら吸い寄せているところがある)

そういう私の弱腰の部分を、足下を見られて舐められている様な気がする。私に必要なのは否定されても、やるものはやるという強い意志を相手に示す事なのだ。それは、きちんとした理由とかそういう理性的なものではなくて、感情に訴えるものが必要なのだ。私は、狭い意味で合理的なので、感情が必要だとは考えなかった。感情があろうがなかろうがやる事は一緒でしょと思っているのだが、実際は違う。歴史を見てもそうだ。人の感情を揺り動かした演説は、世界を変えるパワーすら持っている。(キング牧師ヒトラーの演説を回想)

私は、そういう感情を揺り動かす話し方をする時に、非常に困るのが、自分自身は、そういう事をしたくないのである。なぜなら、理性で片付けたいから。でも、感情が必要なのである。少なくとも、人が従うという事は感情に多くのウェイトがある。正しくても否定された事が多かった私には、そう思えて仕方がない。私は基本的に人の感情は無視する。「君の感情よりもこの問題の方が大事でしょ」というスタンスだ。(よって問題が深刻であればあるほど他人の感情は無視する事になる)

そういうスタンスなので、私は嫌われて言う事を聞いてもらえないのかもしれない。(人は嫌っている人の意見が絶対聞かないが好きな人の意見は聞く:リーダーは好かれる事も大事。好かれる事が権力になる)

私は感情に訴えるのが嫌なのは、本来は感情がないのにある様に見せる嘘を言わないといけないからだ。ウソというのは演出である。演出が重要だと思ってみても、ウソはウソなのだから、バツが悪いのである。そういう意味で本人の品性と思いやりのなさが露呈しているのだが、この人間性の低さが最も指導力の低さに直結しているのかもしれない。(人として優れた人間は演出などしなくても人を動かす事が出来る。その人の発想自体がドラマチックだからだ。私の場合は棒読みの大根役者程度である)

ただ、ひとつ言いたいのは、子供の頃、ガキ大将がいた。ガキ大将は色々な事を決断したが、今の様にリーダーに全責任をなすり付ける様な事はせず、必ず年長さんの2〜3人が補佐に回っていた。補佐する人間がいるからこそ、リーダーは安心して決断が出来るのだ。そうでなければ辛くて決断などできないだろう。

今はもうガキ大将もいなくなって、そういうチームワークというか、連携の重要性が分からなくなっているかもしれないけれども、リーダーは実は一人ではないのだ。必ず補佐する人がいてこそリーダーシップは成立する。私は、補佐する人に囲まれたリーダーを頼もしく思った。問題があったら、その仲間と話し合って決める姿は独善性とは無縁の民主的なものだった。そういうリーダーの方がバランスの良い判断が出来ると思う。主観的なりすぎずに物事を決める姿勢はリーダーとして優れていると思う。

で、お前は何を言いたいのかというと、リーダーは実は一人ではないのである。リーダーの仲間がいて、その中でリーダーとして成立している。だから、リーダーにばかり責任を負わせるのではなく、皆がそれをもり立てる事も同時に必要だという事を言いたかった。

今の日本には技術も、お金も、人材もいる。だが決断力が決定的に足りない。それは、リーダーシップが欠落しているからだ。そして、リーダーシップが欠落している原因は、一人のリーダーに全責任を負わせて、周囲がもり立てる努力をしていないからだ。

ケネディ大統領の演説

「政府が何かしてくれる事を考えるよりも、自分達が国に何が出来るのか考えよう」

この言葉は、ある意味リーダーシップを産み出す言葉なのだ。今の日本に一番欠落している当事者意識に満ちた言葉と言えるだろう。その欠落こそが、めぐりめぐってリーダーを産み出せない原因になっている。本当のリーダーシップはチームプレイなのだ。

リーダーとして魅力があれば、自然にそういう仲間が出来て来るものだが、私の様な無能者には、そういう人間はいない。(むしろ馬鹿にされるのが関の山だろう)私には物事が見えていても、見えた結果をどう活用するべきかは分からない。

大体見えたことをそのまま言っても駄目なのである。問題がどのように存在するか言ってあげても、人は聞かないのである。それよりも自分の意志や感情の方が優先される。(本来、大の大人が社会全体の事を考えず、自分の感情を優先する事など、あってはならないと思うのだが、そうであるという事がこの国の大人の幼さというべきか)

例えば、7月11日の京都議定書の話は、5兆円という極めて深刻な額の問題が提示されたとしても、あまり、重要視はされない。5兆円の意味について述べると、恐らく環境不況と呼ばれる不況が起こる。政府はエネルギーの消費に税金をかけ、間抜けな政治家があさっての予算の組み立てをする。(無駄遣い予算を策定する)さらに5兆円の負担ともなると企業はリストラをする事になるので失業者が増える。

また、環境問題で失業した人を中心にして、環境問題に対する懐疑論が渦巻くだろう。実際には素早く環境問題に適応すれば、大きなビジネスチャンスが得られるのだが、日本は恐らく無能な政治家と扇情的な国民の意思が融合して、環境への逆行現象が起き、逆方向に進むのではないかと私は思っている。

無能な政治家がメーカーや官僚の言いなりになって効果のない環境政策を打ち出す→二酸化炭素が十分に減らない→問題が解決できない→絶望感が広がる→環境悲観論が広まる→環境懐疑論が増え、全体にまとまりがなくなった日本はビジネスチャンスを失いながら没落していく。これが今僕が考える可能性が最も高いシナリオ。(今発表されている環境政策では効果があるとは言えない。一番根本的な問題は、「減らす」事ばかり考えていて「なくす」事を考えていない点だ。また安全性が問題視されている二酸化炭素貯留技術の採用も、極めてリスキー・地震国の日本は特に採用するべきではない技術を世界で率先して採用しようとするなど、頭がおかしいとしか言いようがない:学者は自分達の研究した事を実践してみたいだけで、社会の亊など、きちんと考えてなどいない。そういう学者の本質が分からないのはマズい:核実験をやった科学者に通じるものがある)

それほど人を馬鹿にするなと思うかもしれないが、今までの現実を考えれば、あながちおかしな意見でもないと思う。そうなる前にどうにかしたいところだが、たとえそれを言ったとしても、大抵の人は目先の事が大事なので、聞く耳を持たない。そして、問題が起きてから気づくのである。そういやそんな亊言ってた奴がいたなと気づくが、その頃にはもう遅いのである。

私は忠言をするが、人を動かせた事はない。環境問題や原油高の問題などの今の事態も5年ほど前から想定していた。そんなことは、中国の経済成長率を見れば簡単に分かる事であるが、世の中とはそんな簡単な予測すらしていないのが現実なのである。そんな私だから5兆円という数字から、環境不況を想定するのだが、多くの人はその数字が持つ意味を考えようともせず、ただ目の前の事に意識が集中しているだけなのだ。原油のみならず殆どの資源が高騰する上に、環境税も付加され、しかもその大半が外国に流出するという事態は、日本がジリ貧になるのは明らかなのだが、それを言ったところで誰も耳を傾けないのが現実である。極めて近視眼的な意見がマスコミを賑わすだけなのが、この国の問題であり、最大の弱点なのだ。