SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「みんな」なんて大したことない。羊の群れにすぎない

なんでマスコミにこんなに簡単に騙されるかな〜と考えていると、ふと「みんながやっているから〜正しい」という理屈が引っかかった。あれは、集団に対する信用で、物事を正当化する発想で、私が「バカの連鎖」としているモノの見方である。私がバカというのは、ひとりとして対象(現実)を直視しておらず、ただ、「みんな」という対象とは別のものを見て、それを信じて行動するという、全く根拠がない行為だからである。

より多くの人が支持するものが正しいのならば、選挙は常に正しい結果となるはずだが、実際は、声の大きいマスメディアという犬に誘導された羊の群れというべきものであり、その結果、「ねじれ解消」という御用マスコミ犬の吠える方向に従った大衆という羊が、特定秘密保護法というバリカンで、自分たちを守っている権利という毛を根こそぎ剥ぎ取られ、素っ裸にされるというのが現実である。

「みんな」というものが、声の大きなものにいかにコントロールされ、その結果、権利を身ぐるみ剥がされる日本国民。これが「みんな」の結果である。「みんな」というのは、声の大きなメディアや人間を無条件に肯定する白紙小切手のような言葉であり、あまりよい言葉ではない。

私が、そんな「みんな」という言葉が嫌いなのは子供の頃からである。私は、みんなというグループに入るのは嫌だった。自由じゃなかったから。みんなよりも自由の方が好きな子供だった。みんながいいと思っているものを客観的に見てみると、大したことのないものばかりで、それは、コマーシャルで沢山、プッシュされている商品や習慣であって、私には何の魅力もないものだった。私は「これのどこが、そんなに素晴らしい物なんだろう?」と疑問に思ったものだ。私は模型飛行機や紙飛行機を飛ばすのが好きな子供で、空高く飛ぶ飛行機やスペースシャトルなど、どちらかというと、空とか、宇宙とか、恐竜とか、なんていうか、科学に近いことが好きだった。文化的なことにはまるで興味がなかった。

大して素晴らしくないものを、声の大きなものが素晴らしいということで、素晴らしくしてしまう。それが子供の頃の素晴らしいという言葉の印象だった。そんな孤立している私は、中学生になるといじめられるようになった。私をいじめるようなワルは、全体の5%程度、私を養護してくれる人も5%、残りの90%は傍観者である。さて、ここで私が思ったのは、人が「みんな」という奴を信頼しているのが、とても嘘くさく見えるようになった。なぜならば、人が苦しんでいるのに助けようともせず、傍観する奴が90%の社会なのだ。それが「みんな」の正体なのだ。信頼に値するものではない。さして大したものではない。よって信頼に値するかというと、もちろんない。私がここでわかったのは、人は正義よりも利害によって動くこと、人はお互いの都合で動く、相手と自分の都合が合った時に合意が生じ、それに基づいて行動する。つまり、お互いの都合を勘案すれば、いじめられたくない人間が90%であり、よって、私はワル5%+傍観者90%という圧倒的多数の中で苦しむことになった。本来であれば、傍観者90%から10%程度、私の味方に加わってくれれば、元からいる5%と合わせて、15%の味方が生じ、それによって悪を駆逐できるのだが、臆病者の羊が90%の社会では、それも全く期待できないのである。羊の群れ90%は、羊であって、狼ではないのである。

人々の言う「みんな」というのは、状況をよく見ない愚か者の集団であり、そして、不正を傍観する臆病者である。愚かで臆病なものがいくら集まっても、凡百な羊の群れに過ぎず、それを誰が信用するのか?というしかないのである。物事を変える勇気もない、考えることもない、そんなのがいくら集まってもダメなものはダメなのである。狼が一声吠えれば逃げるだけである。

だから、よく「日本」はダメだという言葉はミスリードである。正確には「日本人」がダメなのである。言葉は正確に使わないといけない。

みんなという言葉を多用する人:羊(87%)
人をいじめる人       :狼(5%)
いじめられる人       :野良猫(3%)
助けてくれる人       :一匹狼、牧羊犬(5%)