何だかんだいって日本人は、決めてくれる人が好きなんだと思う。というのは、一昔前の橋下とか、石原慎太郎のように、とにかく、何でもかんでも無茶苦茶でも、とにかく「こうだっ」て決める人について行く人が結構多い。反面、特定の政策に反対意見を言うと拒絶反応を示す人が多い。
その拒絶反応というのは、反対意見だけでは方向性が見えないからである。決めてくれる人が好きな人が多くいる状況では、単なる反対意見は、何も決められない状況に陥り、どうすればいいのか迷うのである。そういう迷いを決めてくれる人を待望している人たちは嫌う。そして、迷いのないものを選ぶ。その方が頭を使わなくて楽なのである。
ではなぜ、市民として自分で決める権利を放棄してしまうのかというと...
1.難しいことを考えることが大変(ジャーナリズムの腐敗、偏向報道)
2.民主主義における有権者としての義務を理解していない(民主主義教育の欠落)
3.歴史上、庶民に自分で決める権利はなく、習慣として奴隷根性が残っている。
この3つの問題があり、それが根深く日本をダメにしている。そういう状況の中で決めてくれる人がいると楽である。1の難しいことを自分で考える必要はなく、2の義務が分かっていないから政治家が決めてくれるものだと思っている。3の奴隷根性では、決められたことならば、どんな理不尽なことでも守る。
そういう状況になっている。でも、この日本人の習性を考えて抗議運動をするならば、以下の方法論が有効であると考える。
まず、1の難しい事を考えることが苦手ならば、分かりやすく、そして、有効な政策の提案が有効である。考えなくても他人が決めてくれるのがいいならば、こちらが考えた政策を分かりやすく提示すればいい、そう言う意味では、反対意見だけでは逆効果なのである。反対だけだと、じゃぁどうするか考えなくてはいけなくなるから。
2の有権者としての義務というのは、分かりやすい童話のような表現で、なぜ、市民が自ら政治について決めないといけないのか説明しないといけない。これは啓蒙活動に属する。
3の歴史上、決められたことについて従順な習慣というのは、そう言う従順さがいかに理不尽な社会を生むか説明する必要が有る。これも啓蒙活動に類する。
つまり、その問題の解決策の提示と、民主主義の啓蒙の両輪が必要なのである。単なる反対意見では、考えるのが嫌な人たちには敬遠されてしまうものなのだ。だから、考えなくてもいいように表現する必要が有る。
重要なのは提案と啓蒙である。ある意味、批判のみでは拒絶される。考えなくてはいけないから。