SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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ボリュームで考える脳=奴隷の発想「みんな」というマスターに従う奴隷

日本の世論形成の特徴を脳という視点から見ると、「ボリュームで考える脳」という言葉が一番ピッタリ来るのではないかと思った。母と話していて、大抵「皆がしているから〜云々」みたいな会話が多い。皆というボリュームの大きさで物事を判断している。ボリュームが大きくならないと見向きもしない。たとえ論理的に正しいことでも、ボリューム大きくないと無意味だと捉える習慣が日本社会には蔓延している。外国はそうではないことが多い。外国で正しいか正しくないかという視点で大きなデモになったりするのを見ると、実に理性的だと感じる。しかして、日本人は、何でもかんでもボリュームが大きくないと正義も無意味と言わんばかりである。正義とは、皆の理性によって実現するものという常識が分かっていないのが今の日本人だ。一人ひとりの理性の発動が正義を実現するのだ。外国では、それが出来ているのに、日本人は何故それが出来ないのか?不思議でならない。

ただ、私は思うに、外国へ行った時、外国には日本では信じられない格差があり、要するに物事がはっきりしているんだと思う。格差という善と悪がはっきりしている世界では、正義と悪も意識しやすい。しかし、日本のように、格差があったとしても、外国のそれとは全然小さく、そして曖昧な世界では、これは悪、これは善と決めがたいのではないか?

私は自分で善悪を決める。バブル以降からかな、善悪を皆に希釈して、一人ひとりが自分の判断をしなくなったのは、人はそれを自由と言っていたけど、それは単に責任逃れであって、自由じゃない。自由は責任を伴うものであって、その責任を放棄した人間が自由であるはずがない。多くの日本人はバブル以降に皆という衆愚の奴隷になったんだと思う。あれから24年、その考え方は定着した。奴隷と自由人は全く違う。奴隷の発想は、自由とは程遠い。

奴隷の考え方、それは皆というマスターの奴隷になることである。だから、マスターである「皆」に逆らうことを殊更に恐れる。私は恐れない。「みんな」は私のマスターではなく、皆は皆、他人の集団にすぎない。私のマスターは私。「みんな」という考え方がいかに奴隷的であるかというと、自分が正しいと思ったことであったとしても、皆というマスターにお伺いを立てないと何もかも判断できないことだ。これが奴隷でなくて何と言うのだろう。