SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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気を盛りたてる褒め方

私が子供と接するときに、その子供の持っている「気」を最大限気をつけることにしている。気とは、元気の気、覇気の気というような心の勢いである。子どもの心は大人のようにネジ曲がっていないので、気を伸ばせば、そのまま真っすぐ力を発揮する。故に私は子供に対しては、気を重んじる。事実も大事だが、子供の成長力を考えると、至らぬところは、気を伸ばした勢によって超えられる。故に、今足りなくても、将来確実に伸びることが期待できるため、事実よりも気の方が優先されるのだ。言ってみれば子供の場合、成長力があるので、気を伸ばせば、事実は後からついてくる。つまり、気を盛りたてることで、事実を後から引っ張ってくる力技が使える。

大人であってもホメれば伸びるもので、よく褒める。ダメなときは酷く貶す。それが私の言い方、いつも褒めてばかりでもいないし、ダメなことはダメというので信頼される。気を盛りたてるといっても、おべっかを言うわけではないのだ。事実を高く評価するという方法を選ぶのが私の褒め方。他人をほめることができても、自分を褒めるのが難しかった。なぜかというと、私が自分を褒めて元気づけようとしても、周囲が私を自信過剰として諫めるという事を行うのだが、私は微塵も自信過剰ではないのである。むしろ、自信がとてもない自分を励ますために褒めているのであり、それも事実に基づいている。そして、私の自信過剰と解釈される褒め方というのは、相対評価である。多くの人々は絶対評価に至らないので私を過剰な自信を持った愚か者と断罪する。

だが、天才の義父がいて、天才と凡人を比べて、(天才とはとても極端な絶対的存在である)絶対評価がいかに人の気を削ぐものなのかを知っている私にとって、気を盛りたてるという意味では、相対評価がベストだと思っている。だから、気を盛りたてる必要があると思ったときには、できている部分を褒めて、出来ていない部分は、特に見ない。そんな事言わずとも本人が一番わかっている事なのである。だから、私を諌める人たちが言うことは、実は自分が一番良くわかっていることなのである。なぜなら、自分が一番気にしていることであり、だが、それに気を回し過ぎると、心が凍って何もできなくなってしまうからこそ、自分を褒めて温めて、心が凍えないようにしているのである。しかしながら、他人は、私を傲慢だと勘違いする。傲慢と言うよりも、傲慢に見えるというの正確である。彼らの心配は大半が見当はずれである。その原因は、他人の表層を見て、中身を見ていないからである。表層のみで物事を判断するから、本質から遠ざかる。私が自分を励ますために褒めるさまを自画自賛と受け取る。それは全くの見当違いである。それほどの自尊心があるのならば、わざわざ自分を褒めたりしないのだ。

私が誤解を受けやすいのは、私の表層と中身が大きく違っているからだ。褒めたり諌めたりというのは、そういう人間の本質を見通した上でないといけない。それが見通せない未熟者は、人を褒めたり、諌めたりするのはやめたほうが良い。なぜなら、それは増長を生んだり、卑屈を生んだりと弊害が多いからだ。よく、名選手、名監督ならずとあるけれども、それは出来る人間の成功体験のみの発想では、人を励ましたり勇気づけたりすることはできないからだ。人の弱さの本質を理解するものが、人を励ますのには向いている。それが出来るか出来ないかで、名監督になれるか否かが決まるという話なのだろう。