SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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金と命

1989年、昭和天皇崩御されてから、日本は変わってしまったように思う。当時の私は、会話の中で「年号が変わったとしても、何も変わらない」と言っていた。だが、それは間違いだった。確実に変わったと思ったのは、金の論理が暴走していく日本社会だった。確かに世の中は金で動いているのだが、その金を上回る倫理感を持って命を扱わなければいけないという矜持が昭和の時代にはあった。だが、平成になってからというもの、金の論理が命よりも優先される。または、金で辻褄が合わないから命を犠牲にする決定がされるという命よりも金が優先される時代になった。(思うに、昭和天皇は、ある種の倫理感の象徴であった。それがなくなったことにより、象徴という指標を失った日本社会は、矜持を守る基軸を失った。本来は、教育(哲学教育)によって、そういう倫理感を学ぶべきなのだが、それを日本社会は昭和天皇という個人に依存していた)

私が義父との会話で金と命の違いについて聞いたところ、「金は後でどうにでもなるが、命は、死んじまったあとで生き返らせるわけにもいかない」という話を聞き、納得した感がある。つまり、金というのは、命に比べれば、後でどうにでもなる事であり、故に命を優先するのが当たり前だという考え方だ。だから、政治が財源の目処をつけてから震災対応をするというのは、全くのアベコベの論理であり、命を金の論理で否定している。

そういう意味では、平成という時代は平和ボケの時代である。命のリアリティというものが何らわかっていない時代と言ったらいいだろうか。命を金と同列か、それ以下に扱うのは、その違いの本質を共有できなくなった日本社会はダメな社会である。それ以前に人としてダメだ。根本的すぎる事がわかっていないから。大人がこのように三流では子供に示しがつかないのだが、現実の我々大人は、はっきり言って三流の大人である。情けない。もっと言えば、情けないと思うことすらできなくなったら、はっきり言って終わりだ。

日本は、3.11を機にこの命と金の区別がつけられる社会に変わるべきだと思う。平和ボケの時代は、これを機に終わるべきであろう。私はそう思う。