SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

Pref..
Speech
STOP
Follow..
QR Code
|◀
▶|
QR
×
voice
volume
0
rate
0
pitch
0

大河ドラマ「江」の感想

大河ドラマ「江」で信長に「己が思うまま生きよ」と言われるのだが、それをナレーションが「信長のその誇り高き生き方に…」と聞いていると、ほほぅ、己の思うがまま生きる事が誇り高き生き方なのか...と思うと、自分は周りの評価ばかりを気にして誇り低き生き方をしていたなと思った。
 
「思うがまま生きよ」という言葉に自由を感じた。その言葉は、まるで風の様だった。心の中に風が吹いたような気がした。江が、その言葉に感動したのがよく分かる。そう思うと、私は自由でなかったのかもしれない...と思った。私自身は自由であるつもりだったが、思えば誇りを傷つけられて生きてきたような気がする。「江」の家族の3姉妹と母親、そして、伯父である信長を見ても、それぞれが誇りを持ち、互いにぶつかる事があっても、互いの誇りを凛として持ち続ける姿は、背筋の曲がった自分とは対称的と感じた。
 
信長達と自分とは何が違っていたのか、それは、気高さと卑屈さの違いのように感じた。江の家族、信長ともに、絶対に卑屈にならない、卑屈である事を認めない姿勢がある。互いにそうであるから、物事を真っ直ぐ通す気骨というのがある。私は、人がああいうから、こういうから...私は言い訳ばかりである。とても卑屈で見窄らしい。江達は違う。自分がこうと決めれば、天下の信長であろうとも命懸けで臆せず喋るし、そういう江を信長も認め評価しているところは、懐が深いというか大きいと感じる。
 
私は卑屈な家族の中で育ち、いつしか、その卑屈さが身に染みついてしまったようだ。思うがまま生きるというのは、人の評価を気にして、あーだこーだ生きる事ではない。己がこうしたいからこうするという一本の筋を通す生き方なのだと思う。そう思うと、私の悩んでいる事がとてもちっぽけで情けない事のように感じてならない。江達を見ていると、自分が見窄らしく小さく感じる。そう考えると、江は海に似ていると思った。悩んでいる時、大きな海を見るとばからしくなるように、自分より大きなものを見ると、自分の心の中のちっぽけなものが、馬鹿らしくなるような、そんな感じがするのだ。
 
誇り高く生きるというのは、自己責任の徹底にあると感じた。己の思うがまま生きているのだから、人のせいには出来ない。全責任を自分で背負う覚悟、そこに真の誇り高さがある。自分で自分を背負う。とても当たり前だが、それが自分には出来ていなかった。私は思う通りにやろうとすると、どこからか、必ず文句を言う人がいた。でも、私は彼らに何も迷惑をかけないていなかったので、何故、他人が文句を言うのか分からない。彼らが私に文句を言う理由は、自分達が設定するスタンダードと違うからというのが一番多かった。思うがまま生きるという事は、そういう自由な考え方を貫く事だと思うのだが、子供の頃の私は、あまりにも文句を言う人が多すぎてギブアップしてしまった。学校でも家でも始終、そういう評価のされ方をして、疲れ果ててしまった。それに対し、信長は、周囲に「うつけ、うつけ」と言われても、それを跳ね返す覇気があった。スタンダードと違っても、いっこうに気にせず、己を貫いた。誇り高い人間であったといえるだろう。そして己の考え方に一本芯が通っていたからこそ、そういう周囲の言葉を跳ね返す事が出来たのだろう。
 
私は、そこまで徹底してはいなかった。中途半端だったから倒れてしまった。その上、己を己で励ます事すらも抑止され、傷つき、ボロボロになり、心が壊れてしまった。そうやって誇りを失い地べたにはいつくばる私の心と、気高く一本筋の通る信長のような生き方は、全く違うと感じた。中途半端な自由と、中途半端な誇り、何もかも中途半端であるが故に、他人に負け、貫く事の出来ない弱さがあり、その弱さゆえに悩み、苦しむが、その苦しみもまた卑小である。江達を見て、そんな風に感じた。改革とは、そういう卑小さを捨てる事なのではないかと思った。他人があーいうから、こーいうからと言っていたのでは改革など絶対、出来ない。オレはこうするっと退路を断って突き進む覚悟を他者に見せる事で、他人を従わせてこそ、改革が出来る。つまり、自ら先頭に立ち、己の背中をもって、人を従わせる。まるで父親のような姿勢が、私には足りなかった。