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都青少年育成条例改正案はパンドラの箱

都青少年育成条例改正案、日本ペンクラブ東京弁護士会が反対表明
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1011/25/news110.html
 
また石原氏が変な条例を出してきた。

今回の条例の適用範囲  
「刑罰法規に触れる性交もしくは性交類似行為または婚姻を禁止されている近親者間における性交もしくは性交類似行為を、不当に賛美しまたは誇張するように、描写しまたは表現」
 ↑
この条件がおかしいのは、特定の表現をしただけで害があるとみなし規制できるって事。例えば、殺人はいけない事だから、それを表現したものは規制しましょうという論理でしょ。そうなると、殺人を描いたものが全て規制対象になる。つまり、サスペンス作品はほぼ全滅。つまり、特定のジャンルの作品を全て規制対象にする都合のいい論理なわけ。(これを拡大解釈すると、あらゆる情報が規制できる治安維持法になる)その表現や情報が客観的に見て犯罪を誘発する事が分かっていれば、規制するべきだけど、この記事の下のグラフを見てみると分かるけど、実際は逆で、この種の規制を行うと、むしろ性犯罪が増える事が分かる。規制する事で犯罪が誘発されているとなれば、規制しない方が子供にとっては安全という事になる。
 

  • 今回の条例の具体的な内容は、以下の@beniuoさんのドキュメントのリンクで
  • 〔本文の黄色いところが重要〕
  • https://docs.google.com/document/d/1pprDalw9Cg6bkM7vlmX90AxzcpmNVKaJhy2eij6wrBg/edit?hl=ja&authkey=CMrojNwI&pli=1#
  • 内容を見ると、基本的には言葉を変えただけで、単純所持を規制できる内容なのだそうな。要するに、これは前の条例案と何ら変わっていないか、前よりも言葉を変えて条例の施行実態を分かりにくくした事で悪質かもしれない。

 
日本ペンクラブの声明:http://www.japanpen.or.jp/news/post_248.html
要点をまとめるとこんな感じ

  • 歴史的視点(引用)
    • ・「あいかわらず根本において、公権力が人間の内面や言論・表現の自由の領域に関与・介入することに対する謙抑的な配慮が感じられない」
    • ・「公権力がある表現を『有害』かどうかを判断することについて、何の疑念も抱いていない」
    • ・「戦前の日本の為政者たちが青少年の健全育成をタテに、まず漫画を始めとする子ども文化を規制し、たちまち一般の言論・表現の自由を踏みにじっていった歴史を思い起こさないわけにはいかない」(治安維持法の事を言っている)

 

  • 自由と自立の視点において問題点(引用)
    • ・「インターネットや携帯電話等に関し、青少年の利用を制限する責務を親たちなどの保護者に、これまで以上に広範に、画一的に求めている。これは、本来プライバシーの空間であるはずの家庭の中にまで行政的規制を持ち込み、私たちの内面の自由、良心の自由を侵蝕するものと言わざるを得ない」
    • ・「表現やコミュニケーションという民主主義社会の根本にかかわる配慮や規制は、自主的・自立的に行われるべきであり、そこにおける主体的な工夫や試行錯誤が 大人社会を成熟させるだけでなく、青少年が多様な価値観のもとで生きていく知恵と力を身につけるために不可欠な経験となることは、古今東西の文学が描いてきた常識である」

(引用終了)
 
過去の治安維持法もまた、ポルノなどの規制から始まり、それが徐々に拡大解釈されてゆくことで最後には国民の知る権利を著しく規制する治安維持法になった。だから、公権力が、「特定の表現を有害かどうか判断でき、かつ、それを規制し、犯罪として処理できる」という前例を作るべきではない。それは治安維持法の卵を作る事であり、それは国民の知る権利にとって極めて危険な行為なのである。パンドラの箱を開ける行為といってもいい。「でも、児童が犠牲になるでしょ」と思うかもしれないが、現実は逆なのである。こういう規制を作ると、逆に性犯罪が増えてしまっているのだ。以下のグラフを見てもらえれば分かる通り、1999年に施工された児童ポルノ法の施行後の犯罪件数を見てもらえると、その傾向が顕著だと分かる。
 
 犯罪白書 1997年〜2006年 性犯罪はP.5 1997年〜2006年)
 警察庁の性犯罪の統計データ(5ページ目参照)
 
 
つまり、一見、正しそうに見える。この種の規制は、児童を守るという言葉は奇麗だけど、実際には犯罪を増やす結果となっており、実益がないばかりか逆に害悪でさえあるのである。ここで私が強調したいのは、こういう奇麗事を否定する時に問題になるのは、言葉の「美しさ」と現実の「正しさ」が混同されてしまう事で、実際は悪でしかないものが児童を守るという美名の名の元に実践され、その結果、犯罪が増えて、児童が犠牲になる事である。「美しさ」と「正しさ」は本来、別のもので混同するべきものではないのである。(「美しさ」と「正しさ」が混同されて偽善が行われる。人は美しいと、直感的にそれが正しいと思ってしまう。しかし、美しさと正しさは本来、別のものであり、混同するものではないのである)
 
また、歴史的視点から見ても、治安維持法の卵とも言える内容であり、表向きは奇麗なお題目が並んでいるが、その実体は統計資料、歴史的観点からみると、非常に「汚い」あるいは「危険」と言えるものなのである。「児童を守る」という錦の御旗を掲げれば、表現の自由を侵害して良いとか、犯罪にして良いとか、そういう前例を作ってしまうと、それが卵となって、羽化した時に非常に危険な存在となる。(児童ポルノ法施行後の実態を見ても卵だけでも充分危険とも言えるが...→規制する事で逆に犯罪が誘発されている)
 
私たちは、過去の歴史、あるいは統計資料を客観的に見定めて、こういった規制は否定するべきなのである。規制がない時の方が結果的に犯罪が少なかった事から考えると、メディアの規制は見当外れとしかいいようがないし、過去の歴史から見ても、公権力が表現の自由を侵害できる前例となりうる条例であり、児童の安全、表現の自由の観点から、この条例は否決するべきと言える。