SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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誤った常識を疑う

自分を変えようとする時、自分の中の「誤った常識」を壊さなければいけない。そういう固定観念がどうして生まれてしまうのかと考えてみたところ、無限ループのようなものではないかと思った。というのは、誤った常識があたかも常識のように振る舞うのは、それが常識であるかのように継続しているからである。しかし、実際は、誤った常識を自分自身が信じる事によって継続しているのであって、それを個人的に変えようとせず、固定化しているだけとすれば、それは常識ではなく、ただ、私と言う人間の習慣が継続しているだけと言える。
 
つまり、単なる習慣と普遍的な常識を取り違えてはいけないという事なのだ。基本的に私は外部の問題に対して、革新的な発想を持っていたが、自分自身に対してそういう発想を持っていたかと言うと、そうではなかった。私も不思議だったのだ。自分は外部の問題に対しては建設的(楽観的)なのに、自分自身に対しては建設的(楽観的)ではない、その理由はどこにあるのかと。それは、自分自身に対する誤った常識を信じてしまった事から来るものだと分かった。いわば疑似的な(偽物の)常識に振り回されてしまっていた。
 
誤った常識を信じる
→その疑似的な常識が実行され継続する
→継続している事が常識に見える
→最初に戻る↑
 
こんな単純な事が今までどうして分からなかったのかと思うと情けなくなるが、恐らく、それほど自分自身に対して危機感と言うか切迫感がなかったのだろう。また、わたしの心の中にある恐怖がそれをブロックしていたのかもしれない。しかし、そういった恐怖が、より大きな危機感や切迫感によって駆逐される事によって、結果的にわたしの心が前進する事になったのだと思う。そういう意味では危機感の共有が変革の基礎なのだと感じる。
 
誤った常識を疑う事で自分を変える。私が自分を変えなくてはいけなくなったのは責任を背負う事になったからであるが、それを背負う事で私自身が前進できるきっかけをもらったのは良かった事なのかもしれない。責任は重いのだが...