SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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麻薬と心の闇について

麻薬が広まっている。それは、人々の心の闇が広がっているという事だ。麻薬の恐ろしいところは、中毒になって脳を破壊する事だ。私は保健体育の先生に麻薬の中毒とは、麻薬が食欲と同等の欲望になってしまうという事を教わった。つまり、麻薬が切れると、空腹と同等の苦しみを味わうのだ。これは恐ろしい。空腹と同等の苦しみを味わうのだから、打たないわけにはいかなくなる。そして、その上脳を破壊するのだから、ハッキリ言って破滅行為である。
 
さて、そういう破滅的な行為に陥ってしまうのは、やはり、それ相応のストレスがあるからだと思われる。私の子供の頃は出口がなかった。そういう出口がなかったときに思った事は、この辛い事もいつかは終わると思ったものだ。何か苦しい事があっても、それには必ず終わりがある。物事には終わりがあるのだ。そう言い聞かせて耐えた事を思い出す。また、自分一人が苦しい訳ではないと思う事が、ある意味、助けになる。人間というのは差を感じるときに苦しむのだ。だから、他にも同じ様に苦しい人がいると思えば、そのギャップ、差が生じなくなり、耐える事が出来る。
 
また、問題を定量化する事も必要だ。曖昧に捉えていると、それが心の中で肥大化し自分を苦しめるので、問題を具体的に把握する事も効果的だ。このように苦しみを回避するには、いくつかのテクニックがある。それでも、絶望してしまう時は絶望してしまうのだが、だからといって麻薬には手を出さない。なぜなら、それは、より苦しい状況への入り口だから。体を破壊すると同時に社会的地位も奪うわけだから、これ以上問題を増やしたくないと思えば、麻薬になど手を出さないと思う。
 
日本社会は、非常にストレスフルな社会である。それは自殺人口が多い事から分かる。私は同調を重んじる日本社会そのものが個を否定し、追いつめる傾向があると思っている。つまり、私たちが普通(スタンダード)だから、あなたはそれに従いなさいという圧力が大きい。別にそんなもの、集団に依存している奴の思い込みにすぎないのだが、連中は自我が欠落しているので、集団によって自らを補完したいという意欲が強く、その集団の維持に非常に執着しているので、他の人間に自分と同じ様な行為を求めたがる。率直に言っていい迷惑なのだが、それが彼らの弱さなのである。
 
私が子供のころ戦っていたのは、そういう日本社会の悪習だった。歴史にも同様の事があったので、そういう発想がいかに間違っているかは分かっていても、そういうインテリ的な発想は、同様の教養を持っている人間同士でしか共有するのが難しい。下手に歴史を持ち出して否定すると、「このインテリめが」という目で見られる。あるいは、「日本社会とはそういうものだ」と言われる。
 
でも、その「そういうもの」で個人を否定されてはたまらないし、第一それだと自由じゃない、だから、私は馬鹿げた発想だと思っていた。要するにバカにしていたのだ。発想が間違いすぎていて。人がお互いに自由を享受する為には、互いの些細な差などは、甘受する事が必要だ。それを自分と同じにしようなんて度量がなさすぎる。日本人である以前に人間として情けない。
 
そう思っているから、私は他人に無闇に同調は求めない。ただ、自分の正しさについては、具体的に説明する。それで納得すればいいし、納得しないのも自由、ただ、きちんと理由もなしに否定するのは許さない。それは理由もなく人を裁くのと同じだから。私は理由を求める事で他者と対等に話をするが、その対等な条件を崩そうとするものを許さない。そういう厳しいところがある。
 
偉そうに普通を述べる奴、そういうのが諸悪の根源なのだ。それは自由を否定する悪である。私はその悪を否定する。第一、そんな「普通」なんてないのに、それがあるかの様に信じている事自体がおかしい。そういうのは自分の弱さから生まれる思い込みにすぎない事を理解するべきだ。そして、礼儀作法の先生も言っていたのだが、「礼儀とは人の為にあるのであって、礼儀で人を苦しめては絶対にいけない」と言っている様に礼儀とか形にこだわるよりも、まず人を見よと言いたい。
 
人を見て、そして、人が幸せになるよう考えるのが、普通というのならば分かる。それを自分の弱さから生まれる飢餓意識から、自分と同じ事を他者に強要するなどもってのほか、そういう人間が他人を苦しめ追いつめるのだ。そして、どうにもならない絶望の縁に追い込み、救いを奪う。
 
私が、そういう自分と同じ発想を強要する人間を敵視するのは、それが日本のストレスの元凶だと思っているからだ。そして、それが自由の敵だからだ。私はこう思う。普通という形式にこだわって、人を追いつめたり苦しめたりするよりも、むしろそういう事にこだわらず、人が苦しんでいたら助け、救ってやるのが人として「普通」の事だと思うのだ。