SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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決断できない理由 主観と客観(公私)の区別が出来ない

よく、主観的な理由で、物事を正当化する人がいるが、主観が適用できるのは個人の枠内であって、他人も含めた社会全体に適用する為には客観性が求められる。そうでないと、無限の水掛け論になる。なぜなら、個人の主観は、お互いが違っていて当たり前であり、それぞれが、その違いを認めようとすると優先順位が全くつけられなくなる。だが、現実は優先順位をつけなくてはいけない事がある。そういう時には客観的な理由を用いるしかないのだ。しかし、90年代から始まった個人の自由は、何を間違ったか、個人と社会の融合、つまり、公私混同が「個人の自由」の美名の名の下に正当化されてしまった。

法律でも客観的証拠が求められるのは、公の世界では客観的に優先順位をつけなくては、何が正しいのか決める事が出来なくなるからだ。これが主観的な自由の限界である。世の中の正義とは、客観的な優先順位で決まるものなのだ。もし、ここに主観を交えてしまったら、正義は行なわれず、正義と悪の混ざったカオス状態になる。今の日本が、まさにその状態にある。

このようなカオス状態では、必要な決断がまるで出来ない。決断が出来ない事による停滞は日本のあらゆる部分に見られ、致命的なダメージを与えている。社会的損害は極めて大きく、経済では、競争力の劣化と社会正義の側面ではモラルの低下をもたらしている。

自由とは公平でなければならない。客観的でなければ、主観の中にある人間のエゴの海に溺れるだけなのだ。エゴに溺れない為には、誰かが悪者になって、これは駄目だとハッキリ言わなくてはいけない。そういう意味で、大阪府橋下知事は良い仕事をしていると思う。確かに財政再建は痛みが大きいが、彼は同時に大阪府の無駄も削っている。

大阪府、11年ぶり黒字決算に道(ロイター)
http://jp.reuters.com/article/kyodoPoliticsNews/idJP200808080100091220080808

無駄を作り続け、奇麗事を言ってきた議会の連中を個々の主観に支配されたエゴイストだとするならば、公平に予算を切り詰め、健全な財政状態に移行しようとする橋下知事の手腕には評価するべきものがある。決断の力とは、そういう客観性から生まれる公平さの中にある。主観のエゴ(悪平等)の中にそれはない。

大体、大の大人が、この区別が出来ない事自体が異常なのだ。