SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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命に鈍感になってしまった社会

「むしゃくしゃしたら、人を刺す」そういう殺人行為が後を絶たない。私は、この現実に対して、人の命の尊厳に対して鈍感になってしまったと感じる。

私は以前から、表現規制の様なものに危機感を感じていた。表現規制を厳しくする度にストーリーにリアリティがなくなり、命の重さが表現されなくなっていったからだ。なぜなら、表現規制は刺激の強いものを否定していたからだ。

しかし、トラウマになる様な映像がなくなった分、私達はどんどん死に対して鈍感になっていったと思う。命の危険が遠ざかる文明社会において、死は遠くなり、想像力を働かせなければ把握できないものとなりつつある。

他人のほっぺたをつねってみても、自分は痛くない。だから、人は相手の痛みを想像しなければいけない。その想像を助けるのは今や、現実ではなく、空想なのだ。しかし、その空想を愚かな人達が、規制する事によって、当たり障りのない内容に書き換えてしまった。本当に怖い部分を表現しない様になってしまった。残虐な表現も現実を伝えるのには必要な事なのだ。その為には自由が必要なのだ。リアルさというのは自然さから生まれる。しかし、規制を増やす度に表現に不自然さが広がり、人の心に届かない内容が増えてきた。(映像的には残虐でも内容的には怖くない。他者の苦しみを感じる様なリアルさがないのだ)

父親を刺した少女の心を私は推察するに、彼女を揺り動かした衝動は、彼女の想像力の限界を示している。つまり、自分が追いつめられたとき、その追いつめている対象を滅ぼす事によって自分を助ける為の大義名分を夢から得た。彼女の夢は、自分を追いつめる父親への恐怖が、父親を悪人として定義し滅ぼす対象として照準を合わせてしまった。

しかし、それを上回るイメージが彼女にはなかった。つまり、刺されて苦しむ人間の姿、もだえ苦しみ喘ぎ、命を終わらせる恐怖。そういう恐怖があったのならば、行動する前に考えを改める可能性があったかもしれない。しかし、止める価値観(イメージ:恐怖)がなかった。つまり、恐怖を上回る恐怖がない事により、恐怖の均衡が破られ、取り返しのつかない事が行なわれてしまう。

自分の些細な恐怖よりも、死の方がもっと恐ろしい事なのだという現実を表現規制によって見えなくしてしまった。目隠しをされた子供は、正しい恐怖を植え付けられずに、間違った行いをしてしまったと感じる。(規制されて去勢されてしまった作品には説得力(リアリティ)がないのだ)

私は勇気とは、恐れるべきものを恐れ、恐れるべきではないものを恐れない事だと以前書いた。
勇気について
http://d.hatena.ne.jp/skymouse/20080714

恐れるべきものを恐れなくなってしまった鈍感さを私達は表現物で補うべきだと思う。そうする為には過った表現規制を撤廃し、恐れるべき事をキチンと恐れる様にするべきだ。そうしないと、本当の恐怖を知らずに過ちを犯してしまう人間がこれから先、増えていってしまう様に私には思えてならない。