SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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偽善という凶暴さ

偽善者とは何かと言えば、善と悪の区別がつかない人である。具体的に言えば、局所的な正義にこだわるあまり、全体としての正義を見失う人である。それは言い換えるならば戦術的正義と行ってもいい。本当の正義は全体を総合的に把握した戦略性の上に成り立つものだ。
 
教育委員会が暴力はいけないとして、先生を縛ると、一番困るのは弱者である。一見、暴力を抑止して話し合いをすれば解決するというのが理想だが、現実と理想は違う。頭の中での局所的な正義と、頭の外の現実の正義は別なのである。偽善者とは頭の中で満足し、頭の外の世界を見ない。本当に優しい人であれば、子供の状況を現実的に考えて頭の中だけの正義など無視する。それよりも、話し合いも、暴力(抑止力)も両方必要だと考える筈だ。それがバランスのとれた人間だと思う。
 
よく考えてみてほしい。話し合いを法律だとする。暴力を警察だとする。法律だけあって警察の無い社会で人はルールを守るだろうか?守らない人間が出てきて横暴をふるうのは目に見えている。そういう社会の中で一番苦しむのは弱者である。つまり、偽善者のやる事というのは、暴力を助長し、弱者を苦しめる。しかし、それが自らが犯した行為によるもだという認識はゼロなのだ。そこが偽善者の恐ろしいところで、単なる悪人と違うところだ。悪人の悪事は誰の目から見ても悪である為、一度、白昼の元にさらけだされれば、裁かれる運命にある。しかし、偽善者の正義は本質は悪であるのに関わらず、カメレオンの様な擬態によって正義のふりをしていて裁かれない。つまり、彼らの引き起こす問題(法律)には継続性がある。こういう人間が法律を作ると悲劇だ。悪い事を継続的に大規模にするので、大抵、人が死ぬ。あまりに人が死んで無惨なので、ようやく、これでは駄目だという事になり、法律が正されることになる。
 
いじめの問題で毎年子供が死ぬのは誰のせいかよく考えてみよう。
  
世の中の悪法は偽善者が作る。
 
アメリカの禁酒法を見てみよう。禁酒法がした事は、実質的に社会に秩序をもたらさず、密造酒の普及によりマフィアにドルを提供する事だった。偽善者の正義は単純である。酒が秩序を乱すから、酒を禁止しよう。しかし、そんな事をしたら社会全体がどのように動くかという全体的な視点が欠如していた。現実的な人は、酒を禁止しても、密造酒が普及するに決まっている。そして、それで儲けるのはマフィアであり、治安は余計に悪化するであろうと考えた筈だ。
 
偽善者と善人の違いは、善意という点では同じだが、それを実現する為の思考法が違う。偽善者の正義は頭の中だけの観念的なものに対し、善人の正義は客観的だ。法律を作る上で重要なのは、その客観性が大事なのである。法律に観念を持ち込むと、大抵は悪法になる。それは、現実を観念が否定するからである。
 
本物の正義は、外を見る人。しかも、ただ見るのではなく、その本質を的確に把握する人なのだ。つまり、真の善人は、自分の中だけに閉じこもらない心を持っている。人の喜ぶ姿を見て喜び、人の悲しむ姿を見て悲しむ事の出来る人なのである。偽善者は、自分の中だけの正義に満足し、人の悲しみを見ない。本当は見たくないのである。見たくないものに封をして、自分の観念というフィルター越しで見る。私は正しい事をしている。この問題は別の原因によるものに違いない、私は悪くないと考えるのが偽善者の偽善者たるゆえん。そういう卑怯な発想を持った人間が偽善者なのである。そういう卑怯さが無くフェアにものが見れる人こそ、正しい人だと言える。そういう意味で、偽善者と善人の本質的な違いは、発想がフェアであるかという事である。フェアな姿勢があればこそ、人は偽善者にならずに済む。
 
アンフェアな人はいつでも偽善者になれる。私の知る限り、彼らは人生の敗者である。