SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「みんな」にも種類がある 衆愚と集合知

いくら母に説明しても、基本的に母は、みんながやっていることは正しいことだと信じてしまう人だったりする。そのたびに、皆が地震が来るなと思えば、地震が来ないのか、太陽が西から登って東に沈むのか?と言って、事実と衆愚の違いを言っていたりする。思えば、この衆愚の問題について、面と向かって考えて来なかった。正直、どうすればいいか分からない。

私は、義父がどちらかと言えば、欧米的合理主義であり、同時に義理の祖母は、江戸時代の封建社会の発想だった。この両方の影響を受けて、私は育った。ある意味、江戸時代の封建的発想と、欧米の合理主義が一体となっている点で、頭のなかで明治時代が出来ているような状態である。自分が正しいと思うのは、封建的発想の硬直性に嫌気が差し、欧米的合理主義のほうが自由が良いという方向で生きてきた。だがそれも封建的発想の硬直性を知っていればこそのことであり、それを知らなければ自由主義の価値を理解するのには至らないと感じる。封建思想の根幹には、儒教があると感じる。私は、この儒教が大嫌いだ。正確に言うと、儒教は曲解されやすく、そのことが、非常に大迷惑なことになるということだ。

さて、本題の衆愚に対して、どう考えるべきか、明らかに合理性を欠いた衆愚的発想にどう対処すればよいかという点について、単に愚かだと考えるよりも、それにも一定の合理性があるという点を見据えた上で対処するのが正しいと感じる。皆が高く評価するものは、皆の経験によるところが大きい。その経験を評価することは賢明である。だが、しかし、経験しておらず、単に広まっているだけの知識を正しいとするのは考えもの。つまり、皆が評価するものでもいいものと悪いものがあると説明してみてはどうかと思う。

単なる流行と、多数の経験に裏打ちされたものとを区別するような説明、問題はそれを一体として扱っていることではないか、つまり、一方で賢明なものがあり、一方で明らかに衆愚といえるものがある。それが「みんな」という同じ言葉で一体となっている時、その「みんな」にも種類があると説明するのだ。その上で、正しい部分は否定せず、間違っている部分だけを否定する。これだと、反論がしにくいし、反論がしにくいということはイエスというしかないのだ。

そして、ほんとうの意味での「みんな」を説明する必要がある。つまり、現実の多くの人の経験、世界中の人々の経験をベースにした主張、TPPのような自由貿易協定が世界の多くの国の人々を苦しめている事実を伝えること。それが重要ではないか、そして、その多くを現在のマスコミが報道していないという事実、今の日本人は自分の身の回りの世界しか見ていないから世界と言われてもピンと来ないかもしれない。だが、皆が正しいというのならば、世界の皆も見るべきではないかと、彼等が正しいという論理を逆用するべきだと感じる。正しい意味での「みんな」の声があること、そして、それは深刻であること、そういうことが大事なのではないかと伝える。私はそう考えてみた。