SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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反省の仕方:他人の評価だけで自分が正しいと思ってはいけない

他人が正しいといってくれたから自分が正しいと思うのは間違い、もし、そうだったら、多数決は常に正しい事になるが、実際にはそうならない。他人の評価で(その程度の事で)満足するのは甘ったれもいいところ。(考え方がヌルいといってもいいだろう)
 
では、どうするべきなのか?それは現実を直視し、問題の構造を把握し、その構造から生じる問題を解決できてこそ、初めて正しいといえる。つまり、人の評価という間接的評価ではなく、問題そのものを直視せよという事だ。しかも、問題の内面を理解した上で、その中身から破壊する。
 
わたしがそう思ったのは、祖母の事を想い出した時だった。彼女はとてもヌルい考え方の持ち主で、誰にでもいい顔をする人だった。(それが平等だと思っていた節がある)過去に深刻な過ちを犯しているにも関わらず、それと同種の問題を繰り返していた人だった。思えば、なぜ、深刻な過ちを犯した祖母が、それと同種の過ちを繰り返すのか、どうして、そういうヌルい発想でいられるのかと不思議でならなかった。改めて考えてみたところ、祖母の状況評価に問題がある事が分かった。祖母は八方美人な人で、誰にでもいい顔をする人だが、いざとなると自己の保身に走り、道義を無視して、言う事を聞く他人に我慢をさせて片づける人だった。(それが家の平和を守る事だと思っていた。口癖は「理に走るな」だった)しかし、その我慢させる行為が結果として大きなミスに繋がっていた。これが現実だった。しかし、祖母の外面はいいので、他人からは評価は良い。だから、他人が自分を評価してくれるから自分は正しいと思い続けていられたのであろう。しかし、実際には、問題は進行していった。(まるで痛みだけを抑え、病気の元は治さないステロイド剤のようである)
 
さて、祖母の過ちの構造を見てみるとこうである。
1.八方美人で外面はいいが、しかし、悪を裁かず、弱いものを我慢させ無責任である。
2.八方美人ゆえに他人の評価は高い
3.その評価をもって自分が正しいと考えるが、それは外面の評価でしかない
4.実際の(内面の)問題は進行している。(悪を裁かぬので問題が深刻化する)
 
これが祖母が自分を反省しないメカニズムである。評価が他人を介する事で問題の内面に向かわず、外面の評価だけに終始している事が分かる。それ故に深刻な問題を止める事が出来ずに放置できてしまっている。祖母は不思議だっただろう。自分は他人から高く評価されているのに、実際の自分の周囲が不幸である事に、しかし、その不幸は、自分のやり方から生まれている構造から生じていたのだ。祖母が現実を直視し、自分の問題のある行為の構造を把握していたら、最初の過ちから反省し、自分の行為を改める事が出来ただろう。しかし、他人の評価をもって自分を正しいと考えてしまう。ぬるくて甘い発想が、結局同じ過ちを繰り返す結果となった。
 
祖母の過ちは、他人の評価だけで自分が正しいと考えてしまった事。祖母の行為の問題は、悪を裁かない上に、悪に苦しむ者を黙らせるという最悪の行為をしてしまった事だった。それが原因で問題が深刻化する。まるで免疫を破壊するAIDSに似た行為である。些細な風邪のような問題であっても、祖母を介する事でAIDSのように抵抗力を失い深刻な問題に変わる。そういうAIDSのような人なのに、他人の評価をアテにして自分は正しいと信じている為に、自分が不幸の源という自覚はない、その結果、同じ過ちを繰り返す。そういう最悪な人だった。
 
人の評価というのは上っ面だけの事が多い。なぜなら、物事の内面を見るのは難しい事が多いからである。だから、本当に問題を解決しようと思ったら他人の上っ面だけの評価だけで物事を捉えるべきではない。より、問題の内面を直視し、その問題の構造を把握して、そこから問題を解決するべきなのである。特に深刻な問題が起きた時には、そういう考え方をするべきである。それを反省と言うのだ。祖母は、他人の評価をアテにした事で現実の評価が上っ面だけに終始した為、問題の構造を把握できず、同じ過ちを繰り返した。つまり、反省できない人だった。この構造から、偽善者がどのように生まれるか分かると思う。
 
偽善者は他人の評価だけで物事を評価する。それ故に、現実を直視できず、他人の上っ面だけの評価に基づいた判断を繰り返し、その結果、現実から乖離した行為を正しいと信じる。他人が上っ面を重視する事を本能的に知っているので、それを繕う事ばかり考え、その結果、他人の評価は高いが、その表面的な行為により、現実の内面の問題を肥大化させるので、真実を知るものの評価は低い。そして、彼らは、現実を適切に評価していないが故に同じ過ちを繰り返すが、自分が正しいと信じ続ける。全く反省できない。彼らがのさばると、内面は果てしなくダメになり、外面だけがいつも奇麗な状態になる。
 
そして、最終的には内面の問題が外に吹き出した時、彼らの悪事は露見するが、そんな時であっても、外面を繕い続け、自分が問題を引き起こした張本人なのに責任から逃れようとする。とても人間としてダメな人達である。そういうダメな人間にならない為には、深刻な問題が起きたら、他人という上っ面の評価だけでなく、きちんと真面目に問題の現実、つまり、中身を見よと言いたい。そして、その問題の構造を把握し、そこから同じ問題を繰り返さないように行動を改める。それを「反省」というのだ。私は、そういう反省の出来る人を賢明だと思う。間違いを犯さない人などいないのだ。賢明と愚鈍を区別するのは、間違いを犯す事ではなく、その間違いからいかに反省でき、行動を改める事ができたかで決まる。それを他人の上っ面だけの評価のみに頼っては、その構造が見えず、反省できないので、他人の評価だけで自分が正しいと思ってはいけない。本当に正しい人は、問題の内面を直視している人だ。そうであってこそ正しいといえる。そこから逃げている人間は、間違いを繰り返す事になる。問題を直視する事から逃げずに構造を把握し行動し、正しい結果を導き出せた人が本当に正しい人だと思う。そうであってこそ正しいのだ。人が評価してくれる程度で、自分が正しいなんて考えるのは、極めて甘くてヌルい考え方だと思う。その発想のぬるさ、甘さが、他人を不幸にする。そういう「甘ったれ」になりたくないものだ。偽善者のように人を不幸にしないために。