SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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私が悲観的になる理由(負の心を演じていた自分)

私は自分の特技について疑問を抱いていた。なぜならば、誰にでも提案できる内容であったのに、なぜ他人が成功するのか?誰にでも提案できる内容であるならば誰もが成功しているはずである。その違いは何か?簡単な答えは、私の周りに、たまたま優秀な人間が居合わせたから。それだと説明が出来る。実際、成功した人間にはそれだけの能力があったわけだが…それだけだと、有能な彼らは、私の提案なしでも成功したわけであり、私がいなくても良かったはず、しかし、私の提案がきっかけになったのは事実。むしろ、私は、そのきっかけを生み出す点に私の優位性があるように思えた。では、そのきっかけとは何だろうと考えてみたのだがよく分からなかった。歩きながら考えていると、ふと思いついた。
 
私は他人を演じている。もっと言えば、特定のグループや社会を擬人化して演じているのだ。(これが適切なニーズ把握となり、それに基づいた提案がきっかけになったと考えると筋が通る)それを思いついたのは、成功した人間に提案した内容の方向性と、自分が悲観的になる時のイメージが、嫌いな義姉や祖母だと気がついた事だった。つまり、私は彼女達を頭の中でシミュレーションする事で悲観的になったのである。私が、そうしなければ(シミュレートしなければ)いけなかったのは、私の家では、彼女達の意に反すると、ほんの些細な事でも大騒ぎになってしまい、非常に困った事になっていたからだ。だから、私は、その困った事にならないようにするために、事前に彼女達がしそうな事、考えそうな事を頭の中でシミュレーションして自分の行動を規制していたのだ。(あまり酷い時には文句を言ったのだが、彼女らは、とても自分が正しいと信じており、他人の言い分を全く聞かない種族なので...無意味なのだが:ちなみに義姉は教師の娘、大体発想は分かると思う)
 
それで分かった事は、私は毎日、他人のニーズを把握していくために、常に他人の心を頭の中で演じていたのだ。言わば心の演技である。そのドラマは、いつも悲観的なメロドラマである。しかし、この演技が必要だったのは、あの家にいたからであり、今は必要ない。つまり、私が楽観的になるためには、頭の中で義姉や祖母を演じるのをやめ、他人を成功に導いた私自身を演じる事である。つまり、励ましや勇気づけで心を元気にして具体的な提案を繰り出す私自身の心を私の心というステージに登壇させる事が必要だと分かった。
 
私がそう考えたのは、ガラスの仮面北島マヤに自分が似ていると思ったからである。なぜなら、臆病な発想が似ている事と、私自身は優秀でない普通の人間であるのにも関わらず、時折、私が提案した事で他人が大きな成功を手にする。そのことのギャップは何かと考えた時に、北島マヤのように演じる時だけ非常に優れた存在になるという直感型の能力を持っているのではないかと思った。つまり、私は、社会の心の動きや、特定の集団の心の動きを的確に捉えて、彼らの心を代弁するように演じる。その演じている中で必要な事、欲しいものが生まれ、それを有能な人間に伝える事で、彼らの成功のきっかけを作った。実際、私は人の心を頭の中でシミュレーションする訓練を毎日、強制的にさせられていたわけで、その訓練の結果、そういう能力が他人より優れていると考えてもおかしくない。
 
私は他人の心を演じる事で、私自身は楽観的なのに悲観的になっていた。私は他人の心に合わせる事で、家の中で平穏に暮らそうとした。しかし、あまりにも、彼女達の傲慢さに耐えかねて私は、あの家を出た。家を出た後も、病的なまでに悲観的になってしまう自分が理解できなかったが、それは、私があの家で平穏に暮らす為の処世術の副作用だと分かった。人の心を自分の心と融合させて、それに合わせて生きる。私の心には、私自身がきちんと認められた記憶がない。常に彼女らが優位であり、私は常に劣勢に立つ中では、私が私を肯定し、自分の考えで行動する事に躊躇するのは、仕方がなかったかもしれない。言わば、私の心は空であり、そこに他人の心が入り込む事で、私は私自身でなくなる。他人を演じる私となる。まるでプラグインが起動したブラウザのようになる。
 
私が私を演じていい、それが私が家を出た時点で可能となっていたのにも関わらず、私はそれまでの思考習慣を改める事が出来ていなかった。そうしなければ困った事になるという不安が漠然と生じ、それによって悲観していた。しかし、もうそれをする必要はないのだ。私は私自身を演じる事により、自分を励まし、勇気づけ、提案も出来る。実際に他人を成功させるきっかけにもなっている。これ以上素晴らしい事はないと思った。なぜなら、私は、私を最も理解した応援団なのだから。(私は1人なので応援者というべきだが、私が人を応援する時に演じているキャラが複数いるので応援団)