SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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人が絶望するとき

絶望とは、未来が固定されたと思い込む事で生じると思う。故に絶望しないという事は、未来が流動的であると認識する事なのだ。あるいは、そう「する」事なのだ。日本に絶望するという事は、日本の未来が固定されているという事なのだろう。

でもそれは固定観念に過ぎない。変わろうと思えば変われる。ただ今まで変わろうとしてこなかった。その原因は我慢にあると思う。日本人は我慢の民族だと思う。我慢を美徳とする文化があり、それに従って生きる事に誇りすら持っている国民だと私は思う。

だが、我慢も過ぎれば、単なる隷属と大して変わらない。奴隷は常に我慢をしているが、もし我慢が美徳とするならば、奴隷の生き方はとても崇高な筈だ。でも、彼らの人生は幸せとは正反対だ。なぜなら、隷属は状況を他人という未来に固定するだけで、切り開くものではないからだ。

私は子供の頃、祖母に我慢をする事を教えられてきた。どんなに馬鹿にされても、どんなに理不尽な扱いを受けても、我慢し通した。だが、私の子供時代は灰色のままだった。大人になってから、祖母の生き方は単なる「逃げ」に過ぎないと結論づけた。

戦う覚悟のないものの未来は固定され、絶望しか産み出さない。それが大人になった私が自らの子供時代を総括した結果だった。そこで区別しなければいけないのは、忍耐と隷属の違いだった。物事を成し遂げる為に忍耐は必要である。だが、隷属は物事を何も成し遂げはしないし、解決もしない。

忍耐と隷属の違いは、主体的か、受動的かの違いなのだ。己の目的の為に耐えるのが忍耐、他人の目的の為に耐えるのが隷属。自分の人生を生きる為には、忍耐は必要だが、隷属は必要ない。祖母の生き方は隷属であって、美徳でもなんでもなかった。状況を固定し、絶望するだけの生き方。

もし、絶望するというのならば、それだけ周囲の状況に支配され、受動的になっていると考えた方がいい。他人の人生を生きるよりも自分の人生を生きた方がいい。

他人の人生を生きて絶望するよりも、自分の人生を生きて希望を持った方がいい。少なくとも私はそう思う。人は自分の人生を他人に押し付ける。それが己の経験上、最も正しいと信じるからだが、その経験は、その人のものであって私のものではない。空を飛ぶ鳥の生き方とペンギンの生き方は違う様に、人は違う分だけ生き方がある。

そういう違いの分かる人間を私は大人だと思う。そして、それを理解する事こそ、希望を持つ事なのだ。なぜなら、決められたものさしに固定されない事こそ、未来が固定できないという事に他ならないからだ。