自尊心のブラックホール
自分の大切している価値観や理念、又は成果が無視され、否定された場合、人は自己の拠り所を失い自信を失う。自分で自分を評価し尊重できる事も自信である。
主観的自信と客観的自信
自分で自己を評価し、それを信じて行動することも自信、自分の客観的成果を拠り所にして自分を信じることも自信であるが、拠り所の発生源が違う。スランプに陥る人間は、自己の客観的成果に基づいて自分を評価している人、成果が出なくなると自信を失い負のスパイラルに陥る。
彼等は客観的基準を拠り所にしているので、厳密に言うと自分を信じているのではなく、客観的な成果を信じている。もっと言えば、他者の評価を自己の評価の拠り所にしているので、厳密な意味で自分を信じているとは言いがたい。自分自身というよりも、自分の能力や成果という自分の外側のものを基準にしている。だから、失敗が続いたりして、その外側が剥がれ落ちてしまうと、途端に自己を評価するものを失い、自分を信じることが出来なくなってしまう。
そういう他人の評価を自己の評価の拠り所にするのは子供の心理であり、大人の心理ではない。大人は自分の評価を自分で下さなければいけない。大人は自分の親にならなくてはならない。
今一生氏のツィート
親からの自立っていうのはさ、家の外に「べつの親」とか「親代わり」を求めていくことじゃなくて、自分が自分自身の親になることだから、どこにも自分の心を癒す保証なんて無いと学ぶことだし、そんな保証なんてものは存在せず、誰かとの関係のありようをそれに近づける努力を常にするってこと。
— 今一生 (@conisshow) 2015, 9月 1
失敗が続き、自分の周りのものが剥がれ落ちてしまった時、何もなくなって落胆して辛い時でも大人は子どもと違って前に進まないといけない。それが自立という事だから、では、どうするかというと、外側にあるものを失っても、自分自身を拠り所にして頑張る事が大切だと自分に言い聞かせること、冷静に問題点を分析して、自分が何をするべきなのか自分で考え、自分で決断を下していくのが大人のすること。それは、我慢をするということではなく、自分の外面ではなく、内面を信じて頑張ることなのだ。十分に愛情を与えられ、自分の愛し方を知っている人間は、それが自然にできる。しかし、成果や客観的基準に基づいた無償ではない評価を受け続けた人間は、これがうまく出来ない。それをしようとしても、横から煩くそう言う評価を叩きつけて、精神を揺さぶり自信を奪っていく人がいると、そういう無償の評価を自分に下して頑張るということが出来にくくなる。無視しないといけないのだが、そういう人は現実を無視していると、ある意味、他者が評価できるような客観的条件が剥げ落ちてしまって、自分の主観を拠り所にして頑張るしかないのに客観に引き戻そうとする。
主観が暴走すると夢想になってしまうが、何もない所から頑張る時、自分の内面しかないのである。自分は、上手くいく、出来ると信じるしかない。そうなるように努力を積み上げるしかない。それは貯金のようなものだ。10円玉を貯金箱に入れていくプロセスに似ている。最初は、その貯金箱のお金では何も買えない。だが、自分はできる、うまくいく、可能だと励ましながら、観察と分析を繰り返して正しい方向を見定め、頑張って努力という貯金を積み上げていけば、それが積み上がっていく過程で、人が評価してくれるレベルに達するのである。それまでは、外側からの評価は皆無だし、バカにされたりし続ける事は覚悟しないといけない。だから、それまでは自分の内面を信じて頑張るしかない。
ただ、これは我慢しろという意味じゃない、自分に絶望して何の努力もしないのではなく、自分の内面を信じて努力をすることの大切さを述べている。そして、それこそが自立。
新しいことをやる時、そこには既存の評価軸がない。あるのは、こうすればうまくいく筈だという主観しかない。とにかく自分の勘を信じて頑張るしかない。目に見える成果が出るまでは、罵倒され続けることを覚悟しないといけない。自尊心のブラックホールに落ちてはいけないのだ。