SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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善意だけでは正義にならない(ドラゴンボール的正義と鉄腕アトム的正義の違い)

インターネットは使う人間の力量によって、その真価が問われる。これは、昔から思っていたことだが、今ほど、それを痛切に感じることはない。インターネットというインフラを使えば、日本を変えることも可能であろう。なぜならば、それよりも遥かに劣るメディアの登場ですら、社会を変えたのだから。(活版印刷の発明、テレビやラジオの発明)

では、今の日本がなぜ変われないのか?それは、簡単にいえば、私達自身の力量が足りないのである。どのように足りないのかというと、変化に直面した時、周囲の非難を恐れて、それを大きくするよりも小さくする方に行動してしまう点である。日本に、このような価値観が染み付いてしまったのは、バブル後である。

正確には手塚治虫死去後というのが正しい。手塚治虫死去後、コミックの文化には、ただ面白ければいいという考えが大勢となった気がする。ドラゴンボールは、その最たるものだ。率直に言ってドラゴンボールは、面白いだけの漫画だ。ストーリー自体には何の深みもない。スナック菓子のような漫画だ。あのストーリーから人生とか、公正とか、正義とその実現における矛盾、そういうものを学べるものはほとんどない。

鉄腕アトムはどうだろう。正しいということ、その矛盾、そういうものに苦しむアトムが描かれている。鉄腕アトム的なヒーロー像とドラゴンボール孫悟空的なヒーロー像との違いは、その悩みの有無である。キャラクターが悩み苦しみ、決意した結果、何が生まれるのかというと、そこには「強い意志」が生じる。悩みのない決意からは「弱い決意」しか生まれない。

手塚治虫鳥山明を比較するのは酷だが、その作品の力量の差というものが、そこに如実に現れている。そのキャラクターに影響された子供たちの、その将来の行動によって、それが見て取れる。手塚治虫に影響された子供たちは、問題に直面したとき意見を言う事の大切さ、強い意志があったと思う。しかし、ドラゴンボールに影響された世代は、あまり強い意志は感じない。なぜなら、そこに相手を思いやる苦悩がないからである。不幸がイメージできないからである。いつも正義の味方がスーパーパワーを手にして悪をやっつける程度の正義しか知らないからである。

例えば、孫悟空もアトムもスーパーパワーを手にしている点では同じだが、しかし、その力の負の側面を描き、そこから生じる差別や軋轢を描いたのは鉄腕アトムの方だった。そして、ロボットと人間の立場の差によって、差別について、より強く描いたのもアトムの方だ。アトムを読んだ世代は差別がどんなものか漫画を通して知っている。だから、差別される事に対して強い怒りを感じる。しかし、ドラゴンボールに出てくる弱者は、圧倒的なスーパーパワーを持つ悪者に殺される程度の単純化した弱者でしかない。分かりやすいが、弱者の苦悩を描くのには、あまりにも単純化されすぎている。この程度の内容では、弱者に対するイメージ力に差が生じてしまう。リアルな表現ではないからイメージとして弱いのだ。そして、その結果、弱者に対する感性は落ちてしまう。つまり、鈍感になってしまう。(あと、ドラゴンボールでは悪をのさばらせた結果としての犠牲もドラゴンボールを集めると人を生き返らせてチャラに出来るという「チョンボ」で可能になっている点も問題、これにより、弱者の犠牲がとてつもなく軽くなってしまった)

鈍感さの何がダメか、それは他人の痛みを感じる力が弱く、その結果、社会全体に対する不公正、不公平に対する強い怒りが弱くなってしまうことである。己が痛まない限り、他人のために動くということがなくなってしまう。他人の痛みを自分の痛みのように感じる感性があってこそ、人は正義を行えるのである。その感性が弱くなっているということは、その分だけ、悪をのさばらせる土壌が生まれてしまうことを意味する。(表現規制も問題、悪の汚さを表現できないと、正義を伝えることが出来ない。当たり障りのない悪の表現では、結果として鈍感な人間を増やし、悪をのさばらせることになる)

日本社会は、外国と違って差別が比較的、少なかった。外国にいけば差別なんて沢山ある。(特に貧富の差が)だから、コミックのような大衆芸術が人々に差別について伝える必要があった。それも面白い内容でだ。それが実現できていた時代までは、日本人に社会を変える力量が残っていたと思う。インターネットとそれが結びつけば、社会を変える力となっていたはずだ。だが、今の大衆芸術にそれだけの作品があるかといえば、ないとしか言えない。というのは、それを描く世代そのものが差別を知らない世代になってしまったからだ。(ワンピースも頑張っている方だと思うが、結局のところルフィが悩まない超人的キャラ、つまり単純な感情の持ち主でしかないので駄目。ナルトも同じ、ナルトもルフィも基本的に強い、弱さがない。だから、共感できない。これらの漫画では、主人公よりも、周囲のキャラでそういうところを表現しようとしているが、作品全体で、その苦悩の深さを表現するには至っていない、そういう意味では影が薄い、例外的なのはワンピースのコアラのストーリー、あれはよく出来ていたと思う)

だから不公正に対する怒りも弱い、その結果、悪がのさばる。悪がのさばっても自分に痛みが生じない限りにおいて、行動を起こさない。それが今の状況のように思う。救いなのは、最近、「北斗の拳」(TOKYO MX)とか「ガッチャマン」(TOKYO MX)など昔の作品が再放送されている事。昔の作品は、弱者に対する感性がきちんとあって、人々のイメージ力を強くしてくれる。そのイメージ力こそ、社会を変革する力量なのだ。今の若者が差別について理解するのは、恐らくの所、こういう作品を見ることか、あるいは、日本社会が更に悪くなって自分が差別される立場になった時であろう。そうなる前に私たちは、この鈍感な今の日本社会を変える必要がある。問題は私たちの鈍感さにある。善意があっても鈍感であれば、他人の痛みを感じることが出来ず、人は冷酷になれる。温かい人間とは、他人の痛みを理解する感性を持っている人間のことだ。善意だけでは、正しい人間にはなれない。他人の痛みを感じる感性がないと、真の善は行えないのだ。私達には善意はある。だが、酷く鈍感なのだ。それが問題だ。私達は鋭敏なセンスを取り戻し、社会を変えなくてはいけない。なぜなら、今苦しんでいる人がそこにいるのだから。