SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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今の日本に足りないのは「働き甲斐」らしい

テレビをつけていたら、今の日本に足りないのは「働き甲斐」と聞いて妙に納得した。そこで働き甲斐というのを思うと、なぜかガラスの仮面北島マヤがイメージされた。

ガラスの仮面を見ていて思うのは、北島マヤは、演劇という自分の好きなことをただひたすらやっている。苦しいこととか辛いことで傷つくのは普通の人と同じ、ただ演劇が好きだからやっている。それしかないからやっている。人に勝とうと考えてなどいない。勝たなければいけないとも考えてもいない。勝ちたいと思うは、勝利のためではなく、演劇を続けたいからで、全てが好きなことを中心に回っている。姫川亜弓という強力なライバルを目にして何度も絶望するけど、結局自分には演劇しかないと思って、頑張り続ける。彼女にとって演劇とは、生き甲斐なのだが、なんとなく彼女自身ですらあると感じることがある。

働くという事も生きるという事も、ある意味、同じなのかもしれない。生物として生きること、社会的に生きることが働くこととするならば、それは要するに生き方なのだ。欧米型のビジネスでは、勝利に固執するが、基本的にそれは間違っていると感じる。マヤは勝利よりも演劇を撮る。マヤにとって勝利は演劇を続けるための手段でしかない。国際競争で勝つことばかり考えて、生きるという目的を忘れてしまったのが今の日本の社会ではないかと思う。どのように生きるかというビジョンがないからこそ、競争で勝つという生きるための手段でしかないものが目的であるかのように振る舞う。でもそれは手段と目的を取り違えた阿呆な論理なのだ。大事なのはどのように生きるかということであり、勝敗は、その手段にすぎない。もし、勝つ以外の手段で生きることができるのならば、別にそれは必要ないことなのだ。大事なのは、どう生きるかだ。例え戦いに勝利しても、それで得られる生活がチープなものでしかないのならば、それは生きるという目的の点において間違った手段を選んだということになるのだ。そのことが構造改革派という種類の人間には分かっていない。彼らの発想はとても幼稚だ。

人が生きるということ、それは、奴隷のように働かされることではない。ゆとりのある時間、自分の好きな事がやれる選択肢、それらは科学技術によって実現可能なものだ。人間が沢山働かなければならないような社会など古いのだ。資源や食料も自然から効率よく生産できる社会システムの完成が目前まで来ている。国際競争に縛られる社会など20世紀の遺物でしかない。歴史を見れば、明治時代は20時間労働が存在した。今は週休2日10時間労働が普通だろう。これからは週休3〜4日、5時間労働で大丈夫だと思う。技術革新によってあらゆる仕事がオートメーション化していく課程で仕事がなくなっちゃうんだよね。だから、富を分配するために労働時間減らさないといけなくなる。でも、それによって人々にゆとりが生じる。そういうゆとりの中で自分の好きな生き方を選べる社会が21世紀の生き方なんだと思う。だが、あまりにも新しすぎて、笑われるんだよな。この種の話って。20年くらい進んでいる話なんだと思う。進みすぎて笑われる話、でもこれが未来なんだ。笑われるけれども。