SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「見る」と「言う」の違い

見る時と言う時の価値観は分けて考えないといけないのだが、大抵、見たことをそのまま言うと、他人の不興を買う。というのは、正確に物事を見るというは「ムカつく見方」なのだ。どういうことかというと、私は、今日むかつくから、太陽は西から昇るなんてことはない、人の感情に現実は配慮しない。だからこそ、現実を直視するときに感情を交えてはいけない。もうちょっと重ねて言うと、今日はちょっと気分が悪いから、物が下から上に落ちるなんてことはないわけだ。落ちるものは上から下に落ちる。人の感情とは関わりなく。

つまり、見るときには、基本的に感情を無視する事が必要。仏教で言うところの諸行無常無我に近いものがある。しかし、言う時に、この無我の論理をそのまま喋ると、人の感情に全く配慮していないので、不興を買ってしまう。しかし、この無我の論理がわかっている者どうしの会話ではその必要はない。私と義父の会話などがそうで、義父が最近肝臓が悪いと言っていた。だが、彼は、酒をのみピース(日本で売られている最も強いタバコ)を吸うという非常に健康に悪いことをやめなかった。私は義父にこういった。「酒もタバコもやればいいよ。死にたければ」と言った。義父は怒らなかった。なぜなら、私の意図を理解していたし、そもそも現実を直視する姿勢は義父が教えてくれたことだから。
 
しかし、この喋り方を普通の人にすると、非常に評判が悪い。辛辣かつ冷たく、そして、感情を逆なでするからだ。普通の人間に死ぬなんてことを言ったら、非常に不興を買う。愚かなことを愚かとハッキリ言っても不興を買うだろう。だから、大人であれば、そういう帰結をきちんと整理してしゃべる必要があるのだが、そういう事をしなくても、本音で喋れる義父のような相手と話していた頃の癖が未だに抜けず、ついつい本音を喋ってしまい、人から不興を買って失敗することが多い。義父はダメなことをダメという人だったし、人からそう言われても、それが真実ならば怒らない人だった。彼にとって重要なことは、真実であるか否かということであり、自分の感情がどうこうということではなかった。

つまり、見るときに必要な無情(無我の論理)を、そのまま無情に(情け容赦なく)話してしまうと、無情なので非常に印象が悪い。見るときは無情で、言う時には有情でしゃべるのが良い。それがわかっていて、そういうことができない私が言うのもなんなのだが...この無を有にするのが難しく、ついつい面倒くさくて省いて、いらぬ不興を買い、失敗する事がよくある。ただ、子供に対しては意外と上手に言えているような気がする。そういう意味では、私は子供とは仲が良い。大人とは仲が悪いけど...