SKY NOTE

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1989年に亡くなった人の事を想う

テレビで松田優作が死ぬ前に友人とドライブしているときに「収、これからは収の好きにやれよ」と言ったと聞いた時、「ああ、これは別れの言葉だな」と思った。自分も、友と絶交した時、そういう心境になった事があった。つまり、「自分はお前の前から消えるから、お前はお前で勝手にやれ」というイメージ。自分が消えた後、相手の心の中で自分の存在を片づけておくというか、整理しておくというか、そういう何か後始末みたいな感じがする。
 
人の死後、残していくものによって、死後の評価も決まる。松田優作の残した映像は生き続け、今でも、その強烈なイメージを人にぶつけている。日本のバブル絶頂期の1989年に、日本のカリスマ的存在の多くが亡くなっている。手塚治虫昭和天皇美空ひばり松田優作と、最高の人材が日本から去ってしまい、まるで日本は空気の抜けた状態になってしまった。この人達は、あらゆる意味で日本の精神的支柱を成していたと思う。
 
この人達が、もっと生きていたら、日本はこれほどまでに堕落する事はなかったと思う。(彼らから言わせれば、俺達に頼っているようじゃダメだな、しっかりしろよと言われそうだが)松田優作みたいな人が生きていると、なんだか、ぬるい事をするのが恥ずかしくなっていくってのかな。要するに大きな比較対象が存在すると、恥ずかしくなるって言うのがあるんだけど、こう、比較対象があるとないのとでは、自分のあり方というか、指標というものが変わってくるんだよね。(横で一生懸命、頑張っている奴がいると、怠けるのがカッコ悪くなってくるというか、そんな感じ)
 
まるで昭和という時代が、彼らを連れ去っていったかのように、この時期に亡くなった人の存在は大きかった。彼らが亡くなった後の日本には、生気が抜けてしまった。その後に来る数々の変化に対して、日本は終始、受け身であり、まるで自分というものをきちんと表現できないような状態になっていった感がある。魂が抜けている。
 
もし、松田優作が生きていていたら、これほど、日本の男がぬるい存在にはならなかったと感じる。すごい比較対象がいると、背筋が伸びるものだから。徹底して頑張る彼の姿を見ていると、ぬるいというか、甘いというか、アンフェアというか、そういうのをやって、せせこましく生きている事が恥ずかしくなってくる。女々しく言い訳を言うのが、何だか恥ずかしいみたいな感じがする。ガンの痛みに耐えながら、ブラックレインの撮影を続ける松田優作の写真を見ていて、そう想った。
 
野獣死すべし(1980年作)

松田優作の映画の中では、一番、印象に残る。死んだサメのような目が、とても犯罪者の狂気を表現していて迫力があった。演技が徹底できているので、キャラの存在感やリアリティが浮き上がっている。大抵の俳優は、演技が徹底し切れていないところがあり、そこがわざとらしさになってしまう。しかし、松田優作は演技が違う。そこにそういう奴がいると感じる迫力がある。その迫力が映画のメッセージを強烈に印象づける。そういえば、そういう映画、最近見てないなぁ。彼はもう20年以上前に亡くなっているけど、映画を見ると、彼の個性は生きていると感じる。(30年以上前の映画だから、若い人は知らない人がいると想うけどオススメ)
 
iTunes 「野獣死すべし」(116分)
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