SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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普通という名の権威主義

普通であるだけで人を裁いていいという発想の人間がいるが、それは間違いである。歴史をみれば、それは単なる差別主義者と書かれている。彼らは何らかの形で「標準」を設定し、その標準から外れた者を「異端」として差別してきた。昔から行われている差別の歴史であり、よくあることだ。
 
1.進歩を否定する普通という権威

  • キリスト教を中心とする異端審問、魔女狩り、十字軍遠征などは、その典型例であり、ガリレオが裁かれた事を見ても、それは進歩発展を阻害するものだと分かる。もっと言えば、ヨーロッパの文明は、キリスト教によって1000年遅れたと言われている。なぜなら、今から2000年以上前のギリシャ文明を見ると、現在の科学の土台になる革新的な偉業の多くが成し遂げられており、それから普通に進歩すると、現在よりも1000年分は社会が進歩していなければいけないという話だ。しかし、キリスト教が生まれて以降、この発展がぱったりと止まっている。その理由は、キリスト教がそれ以外の考え方を異端(普通じゃない)として弾圧したからだ。その結果、社会の進歩は停滞した。科学の真実を言うだけで裁かれたガリレオを見れば、それが分かるだろう。

 
2.自由を否定する普通という差別主義者達

  • 普通というスタンダードを設定し、人を差別する歴史を見ると、白人を標準とする人種差別がある。黒人はただ肌が黒いというだけで、不当に差別されていた。実力や能力によってではなく、白い皮膚である事が、標準(普通)とされ、それ以外の者を異端(普通じゃない)として差別した歴史、こういう差別がまかり通っていた時代が、つい最近まであった。もっと言えば、ユダヤ人大虐殺を行ったナチも同じだ。アーリア人(ドイツ人)を標準民族(普通民族)とする千年帝国を作ろうとしてた。その世界ではユダヤ人は生きてはいけなかった。歴史を見ると、そういう不幸な現実が普通か普通でないかという理由で行われている事が分かる。

 
3.普通じゃないという事で戦争までする「普通」といういかがわしい発想

  • キリスト教を普遍化し、それ以外の者を排斥した十字軍遠征、人類は単に普通じゃないという理由だけで戦争(人殺し)まで犯している。キリスト教が普通であって、他の宗教は邪教として排斥する為に戦争をした。

 
この様な歴史を見ると、人類は普通という概念を用いて、人を差別する口実に使い、自分と違う者を排斥してきたという事が分かる。このように普通でないというだけで人を差別するのは、極めて社会にとって有害な発想である事が分かる。単に普通でないという理由だけで、進歩を阻害し、人を差別し(他人の自由を否定し)、あろう事か殺人(戦争)まで犯している。この歴史の事実から普通というものを権威付けする事がいかに如何わしい発想であるかが分かると思う。
 
私は義父から、こう教わった「他人に迷惑をかけていない限りにおいて、お前は何をしてもいい」と。この言葉は自由放任の様に聞こえるが、その裏には、客観的に他者に害を及ぼさない限りおいて、人を裁いてはならないという事でもある。こういう度量の広い発想であればこそ、社会の自由や進歩、自分と違う他者の尊厳が守られる事になるのである。そこに条件付けをし始めると、途端に自由は失われ、進歩が停滞し、差別が行われる。だから私は普通でない(自分達と違う)というだけで人を差別しない。もし、そんな考え方をしていたら、私は社会の自由や進歩を否定する事になる。進歩や自由の恩恵によくしている自分がそれを否定するのは筋が通らない。だから、普通を他人に強要する事はしないし、そういう発想をしている人間がいたら、諌めたりもする。君のやっている事は筋が通らないと言ってやる。
 
普通である事が有害なのではない、普通である事をことさらに強調し、それに他人を従わせようという発想が有害だと言っているのだ。最近心配なのが、KYという言葉、空気という他人と同調する事を強要する言葉に聞こえてしょうがない。それは自分達の標準を他人に強要する発想に近いものがある。あまり、いい考え方ではない。社会の自由や進歩は、異端をどれだけ認められるかで決まって来る。そういう度量が大きい発想を持つと、社会は大いに進歩し、自由になるだろう。逆に他人に自分の基準に当てはめようとする人間が増えると、社会の進歩は停滞し、不自由になっていくだろう。歴史を見ると、普通(多数派の意見)を他人(少数派)に強要する事がいかに暴力的でいかがわしい有害な発想であるかが分かる。普通である事は罪ではない、だが、その普通を他人に強要するのは罪だ。少なくとも歴史はそのように語っている。
 
最後にビスマルクの言葉で締めくくるとしよう

  • 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」