知識と意識の違い
知っているだけでは、「ヤバイ」と思わない。その違いは、問題との距離感にあると思う。知っているだけの人も危機意識のある人も、危険なものの存在は両方とも「知っている」のだ。
しかし、その危険なものが対岸の火事程度の遠いものと思っていれば、「ヤバイ」と思わないし、恐れもしない。逆にその危険なものが近くに来ていると思えば、「ヤバイ」と思って逃げ出す。
「ヤバイ」と思う人が危機意識があるとすれば、その距離感は、危険を回避するために使われる。逆に遠いものだと思えば、まだまだ大丈夫と思っていられるが、備えが遅れて破滅することもありえる。
つまり、意識というのは問題との距離の測り方と言えるのだ。知っているだけでは地平線の向こうにあって恐れるには値しないものかも知れない。それが自分に近づいていることを察知し、そのスピードと破壊力を遠くから積算し、危険を察知したら回避行動に移る。それはまるで、自衛隊の「あたご」の事件を想起する。あたごのの乗組員は、危険の(漁船の)存在は知っていたが、その距離感を誤った。
私の危機との距離感の測り方は、例えそれが遠くに見えても、それが自分に近づいてきており、危険なものであることを察知すれば、そこに意識を集中し、侮らない。遠いといっても、ぶつかる可能性があり、ぶつかった場合の損害が馬鹿にならないと思えば、それは遠い問題ではなく近くの重大問題と同等の扱いで考える。また、それが大きな問題であればあるほど、自衛隊の「あたご」の様に回避行動に時間のかかるタイプの問題の場合は、なるべく時間の余裕をとって回避する。そういう意味では、遠くにあっても問題解決に必要な時間を考えると、そう遠いものではないと計算し、善処する。
私が見ていて、危なっかしいなと思うのは、危機が目の前に来てからようやく気づいて回避行動に移る人が結構多いことだ。目にハッキリ見える段階になってしまうと、手遅れになる可能性があるから、事前に予測して対応するのが私の場合普通なのだが、彼らの場合、見えるまで何もしない。ある意味、そういう発想が別の意味でヤバイ存在だ。近づきたくない。危ないから。
自転車に乗っているときでも、やはり、相手の進路を予測して動くからスムーズに走れるのであって、直前になって慌ててたら、危険極まりない。そういう意味で、予測をしないで直前になって慌てる人は、例え危機の存在を知っていても、その知識を生かせない人だと思う。なぜなら、そのときにはもう知っていようがいまいが、問題解決に必要な時間を使い切っているだろうから。