SKY NOTE

skymouseが思った事考えた事を記したもの

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「音化」した言葉による退化した会話(音によるマインドコントロール)

最近、ふと疑問に思ったことは、情緒的なことに偏ってしまう今の日本の会話の異常さ、昔の日本人の言葉は、もっと論理的で筋の通った喋り方をしていたと思う。最近、脱原発デモで、年配の女性が、キレイで上品な日本語で原発に対して反対していた。とても論理的で、それが綺麗な日本語にそって話されていたから、とても説得力があった。

で、最近気づいたことは、会話が音化していると思うのだ。つまり、言葉ではなく、音になっている。人は感情を音程で表現する。その音化した感情の応酬が会話になっている。これに気づいたのは、女性の会話について、女性は会話に論理的と言うよりも共感を求めているというう記事を読んだ時、つまり、言葉を論理ではなく感性で捉えているという事がわかる。

つまり、「音化」した言葉は、感情でしかないのだ。感情のぶつかり合い、それはまるで鳥のさえずりに似ている。最近、自分の家の風呂の排気口に鳩が巣を作って住み着いているのだが、朝になるとホーホー鳴く、あれと同じ。人間の言葉が動物並みに退化しているのではないかと、最近思うようになった。あの年配の人の綺麗な日本語の論理的な話し方を聞いてしまうと、そう思えてならないのだ。

なぜ、こんなにも会話が退化してしまったのかと言うと、バブル以降、言葉がキーワードになってしまった時と同期している。キーワードの組み合わせでしかなくなった会話に論理的な緻密さはない。キーワードが退化して鳴き声のようになり、それが音化して、感情しか表現できない状態、言葉をしゃべっているようでいて、その内容はなく、むしろ、その言葉を発する際の感情を示す音程のほうが意味を持ち始めているのではないか、そう考えると、情緒に偏る日本社会の構図が見えてくるのだ。

空気というのも、ある種の感情を示す音程の声に反応しているのではないか、全体が奏でる音程との不協和音を恐れるあまり、皆同じ音程にすべく、同一の考えに落ち着く、それも単純なものに。そういう風に考えると、空気ではなく、音なのだ。単純化し弱くなった言葉よりも、感情の方が優位になってしまった。そして、その感情が情緒的な発想を暴走させる。論理的ではないからね。そして、それを主導するのがマスメディア、彼らは一斉に同じ音程の言葉の音を使い人々を、その音程に同調させようとする。コレがマインドコントロールの仕組みではないか?

音楽は感情を生み出す。それと同じように、言葉よりも音程が優位に立つようなコミュニケーションが発生しているとしたら、それは、皆に同じ音程の音をきかせ、それに同調しないと村八分だぞという脅迫をするコミュニケーションが生じたら、人々は強迫観念的に同調し、それに合致しないものを、まるで合唱の際に音程を合わせようとするかのように村八分をするようになるのではないか?

最近、そう思えてならないのだ。